ケ具を引寄せて、日頃《ひごろ》好きな熱い茶を入れて飲んだ。好きな巻煙草《まきたばこ》をもそこへ取出して、火鉢の灰の中にある紅々《あかあか》とおこった炭の焔《ほのお》を無心に眺《なが》めながら、二三本つづけざまに燻《ふか》して見た。
壊《こわ》れ行く自己《おのれ》に対するような冷たく痛ましい心持が、そのうちに岸本の意識に上って来た。
十四
簾《すだれ》がある。団扇《うちわ》がある。馳走《ちそう》ぶりの冷麦《ひやむぎ》なぞが取寄せて出してある。親戚のものは花火を見ながら集って来ている。甥《おい》の細君が居る。女学生時代の輝子が居る。郷里の方から東京へ出て来たばかりの節子も姉に連れられて来ている。白い扇子をパチパチ言わせながら、「世が世なら伝馬《てんま》の一艘《いっそう》も借りて押出すのになあ」と嘆息する甥《おい》の太一が居る。まだ幼少《ちいさ》な泉太は着物を着更《きか》えさせられて、それらの人達の間を嬉しそうに歩き廻っている。皆を款待《もてな》そうとする母親に抱かれて、乳房を吸っている繁もそこに居る。両国の方ではそろそろ晩の花火のあがる音がする――
これは園子がまだ達者でいた頃の下座敷の光景《ありさま》だ。岸本はその頃のさかりの園子を、女らしく好く発達した彼女を、堅肥《かたぶと》りに肥《ふと》っても柔軟《しなやか》な姿を失わない彼女の体格を、記憶でまだありありと見ることが出来た。岸本はまたその頃の記憶を階下から自分の書斎へ持って来ることも出来た。独《ひと》りで二階に閉籠《とじこも》って机に向っている彼自身がある。どうかするとその彼の背後《うしろ》へ来て、彼を羽翅《はがい》で抱締めるようにして、親しげに顔を寄せるものがある。それが彼の妻だ。
園子はその頃から夫の書斎を恐れなかった。画家のアトリエというよりは寧《むし》ろ科学者の実験室のように冷く厳粛《おごそか》なものとして置いた書斎の中に、そうして忸々《なれなれ》しくいられることを彼女は夢のようにすら楽しく思うらしかった。岸本が彼女に忸々しく仕向けたことは、必《きっ》とその同じ仕向けでもって、彼女はそれを夫に酬《むく》いた。時には彼女は夫の身体《からだ》を自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前《めのまえ》に見るその同じ部屋の内だ。長いこと妻を導
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