逖bし込みに行っていた。階下《した》には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。
 避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹《こた》えた。それを聞くと、岸本は悄《しお》れた姪《めい》の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥《なだ》めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何《いかん》ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯《はしごだん》を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。
 世のならわしにも従わず、親戚《しんせき》の勧めも容《い》れず、友人の忠告にも耳を傾けず、自然に逆らってまでも自分勝手の道を歩いて行こうとした頑固《かたくな》な岸本は、こうした陥穽《おとしあな》のようなところへ堕《お》ちて行った。自分は犯すつもりもなくこんな罪を犯したと言って見たところで、それが彼には何の弁解《いいわけ》にも成らなかった。自分は婦徳を重んじ正義を愛するの念に於《おい》て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄《かみがたうた》の合《あい》の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何《いか》なる場合にも自分は傍観者であって、曾《かつ》てそれらの刺戟《しげき》に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足《た》しにも成らないのみか、あべこべに洒脱《しゃだつ》をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気《しゃれけ》があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰《もら》うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳《あたま》の内部《なか》ですら聞いた。
 しばらく岸本は何事《なんに》も考えられなかった。
 部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とぼ》っていた。がっしりとした四角な火鉢《ひばち》にかけてある鉄瓶《てつびん》の湯も沸いていた。岸本は茶
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