Yれられなかった。これまで展《ひろ》げたことの無い自分の胸を展げて見せて、それを受け入れた節子と今まで合せたことの無いような顔を合せたのもその日であった。彼は節子が帰って行った後になって、反《かえ》ってよくその瞬間を自分の胸に描くことが出来た。奥の部屋の方に居る自分のところへ縁側づたいに挨拶《あいさつ》に来た時の彼女の眼。叔父とか姪《めい》とかの普通の心持に妨げられて、どうしてもその時まで合せることの出来なかった二人の心の顔。その日は一同庭先で写真を撮《と》ったが、岸本は写真屋まで使に行くことを節子に頼んだ時のその自分の隠れた心持をも忘れることは出来なかった。町の近くにある写真屋は節子もよく案内だった。彼は節子を使にやる序《ついで》に、彼女自身一人で撮って来るだけの写真の代を人知れず彼女の帯の間に潜ませた。
「どうしましょう。止《よ》しましょうか」
 と節子はわざと格子戸《こうしど》の外で雨傘《あまがさ》を手にしながら言って見せて、玄関先まで一緒に出て見た彼の方を一寸《ちょっと》振向いた。節子が抑《おさ》えに抑えているような親しみを彼に通わせたのも、その短い瞬間に過ぎなかったが。

        五十七

 根岸の姪から岸本は例の縁談に関した手紙を貰《もら》った。愛子は以前にも勝《まさ》る熱心な調子で彼女の学友のことを書いてよこした。彼女が同期の卒業生は各自《めいめい》の家へ順番に寄合って旧交を温めることにしているので、彼女の家でも最近に小さな集りをして、以前格別御世話に成った学校の先生をも招いたと書いてよこした。その先生からも叔父さんの噂《うわさ》が出て、是非この縁談を勧めるようにとの話があったと書いてよこした。彼女が同期の卒業生は今は殆《ほと》んど子供を控えているような人達ばかりで、家庭の人でないものはあの学友のみと成ったと書いてよこした。愛子はまた校長先生の意志にも言い及んで、叔父さんさえ承諾すればこの縁談は纏《まと》まるものと思うと書いてよこした。
 これほど心配してくれる人達があっても、最早岸本の心は定まっていた。彼は節子との関係を持ちながら、こうした縁談に耳を傾けたことを心に羞《は》じた。
「難有《ありがと》う。いろいろ御心配を掛けて済まなかったが、自分は熟考の上で御断りすることに決心した。校長先生へもよろしく伝えて下さい」
 こういう意味の返事を岸本
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