`雄の起きたり臥《ね》たりしていた奥の部屋に自分の机や書棚《しょだな》を置いた。その部屋で谷中から訪《たず》ねて来た兄を客として迎えて見た。義雄は郷里の方から戻った時で、移転の際に留守にした礼などを言い入れに来たのであった。
「俺《おれ》の家でも万事好都合に行ってね。嘉代も大喜びサ」と義雄が言った。
「へえ、どうかと思って私は心配しておりました」と岸本は兄の話を受けて、「姉さんの口振《くちぶり》ではあまり家も気に入らないような話でしたが、引越して住んで見れば悪くもありませんかナ」
「どうしてどうして。叔父さんの御蔭《おかげ》でこんな好い家へ越せたなんて、しきりにお前に感謝してる」
「そいつはまあ好うござんした。それに、子供が一緒でないだけでも高輪に居た時分とは違いましょう」
「悪く言うのも早いが、褒《ほ》めるのもまた早いや」
 この義雄の言草が自分に対する嫂の噂《うわさ》であるだけ岸本を笑わせた。その日は義雄はあまり長くも腰を据えていなかった。いずれ近いうちに節子をよこすという話なぞを残して置いて帰って行った。岸本と節子との変って来た関係は何となく兄弟の関係までも変えて見せた。彼は義雄を兄として見るばかりでなく、どうかすると親としても見るような今までにない心持をも起して来るように成った。

        五十六

 眠りがたい夜が復《ま》た続いた。どうしてこんなことが起って来たろうと自分に不審に思うほどの心持で岸本は節子の来るのを待ち侘《わ》びた。節子は弟の一郎を連れて、急に時雨《しぐ》れるかと思うと復た晴れて行くような日に高輪へ訪《たず》ねて来た。その日は節子|姉弟《きょうだい》に取って、谷中から祖母さんや叔父を見に来た最初の時であった。一郎は新しく替った学校の徽章《きしょう》を帽子に附け、手土産《てみやげ》を提《さ》げ、改まった顔付をしてやって来た。この一郎と一緒になることは泉太や繁をめずらしがらせた。節子は平素にも勝《ま》して静粛に見えた。彼女は主《おも》に祖母さんの側に居て、谷中の家の様子を聞きたがる年とった祖母さんにいろいろなことを語り聞かせたり慰めたりするという風であった。彼女は近いうちに叔父の手伝いとして復た訪ねて来ることを祖母さんに話して置いて、その日は弟と共に遠い帰路《かえりみち》を急いで行った。
 こうした親類附合の一日も、しかし岸本に取っては
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