ヘ愛子|宛《あて》に出した。もし愛子の学友が自分の過去を知ったなら、断ってくれて反って可《よ》かったと思うであろう、と想像した。
 丁度節子は叔父の手伝いとして谷中から通って来た日のことであった。あだかも彼女はこの話の成行を知るために高輪へ来合せたかのように。岸本は紙に書いたものを節子に見せて、彼女を安心させることを忘れなかった。
 最早祖母さんの部屋には行火《あんか》が置いてあった。節子はその部屋の方から縁側伝いに岸本の机の側へ来た。
「折角骨折っても、何処《どこ》かへ持って行かれてしまった日には、ほんとにツマラないね」
 前後の話に無関係な、こんな僅《わず》かな言葉が岸本の口から出て来た。でも、それを聞いた節子には岸本の方で言おうとする意味がよく通じた。
「何処かへ持って行かれてしまうなんて――何処へも行かなければ可《い》いじゃありませんか」
 と言って節子は微笑《ほほえ》んだ。
 それぎり、岸本はもうそんな話をしなかった。節子は近くいて見ると、彼は彼女の内部《なか》に燃え上り燃え上りするような焔《ほのお》が生々《いきいき》と彼女の瞳《ひとみ》にかがやくのを見た。時としては彼女の顔に上って来る血潮が深くかすかに彼女の頬《ほお》を染めるのを見た。
 岸本に言わせると、彼と節子とはまだ一歩《ひとあし》踏出したばかりであった。ある意味から言えば、漸《ようや》くこんな境地まで漕付《こぎつ》けたばかりであった。彼は節子をこの世の旅の道連れとして、二人で行けるところまで行こうとした。節子は谷中の方へ帰ってから短い手紙を岸本の許《もと》へ送ってよこした。
「どんなに多くの御不自由を御忍びなさることか。それもわたしからと思いますと、ほんとうに苦しゅうございます。どうぞどうぞすべてを御許し下さいまし」

        五十八

「『冬』が私の側へ来た。
 ――私が待ち受けていたのは、正直に言うともっと光沢《つや》の無い、単調で眠そうな、貧しそうに震えた、醜く皺枯《しわが》れた老婆であった。私は自分の側に来たものの顔をつくづくと眺《なが》めて、まるで自分の先入主となった物の考え方や、自分の予想していたものとは反対であるのに驚かされた。私は尋ねて見た。
 ――お前が『冬』か。
 ――そういうお前は一体私を誰だと思うのだ、そんなにお前は私を見損《みそこ》なっていたのか、と『冬』が答え
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