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 節子は次のような返事を送ってよこした。
「わたしは心から微笑《ほほえ》みました。幾年も笑ったことのない人になっておりましたのに……何もかもお話しますと申上げましたね。とうとうその時が参りましたよ。わたしはその時がこんなに早く参ろうとは思いませんでした。すくなくも二三年は待たなければ成らないかと思いました……なんにも自分の心を満してはくれなかったと申したことが有りましたね。幼少《ちいさ》い時分からしていろいろな人をじっと見つめておりますと、どこか物足らないところが出て来るんですもの。ほんとうに自分を開放する気には成れませんでした。わたしどもの創作は、最初こそあんなでございましたけれども、間もなくわたしは長い間自分の求めていたものであることを見出しました。けれども、その頃は叔父さんは、ちっとも御自分の御心を開放しては下さいませんでした。それからあの三年の長い間、何一つ小さな物の影すらわたしの心に射《さ》すことは出来ませんでした。富も栄華もわたしの心の糧《かて》ではございませんから……旅からお帰りに成って半月ほどの間、なんにも咽喉《のど》を通らなかったほどのこの大きな喜びは、誰のところへ参りましょう。そうしたものにのみ与えらるる唯一の物では御座いますまいか。あの低気圧の何であったかは、漸《ようや》くお解《わか》りでございましょう。どうぞ長い間のこの心を、そして心からの微笑みを御受け下さい」
 この返事を受取って見ると、岸本は何よりも先《ま》ず節子の率直な告白をうれしく思った。「創作」という言葉でもって二人の間の結びつきを言い表そうとしてあるのにも心を曳《ひ》かれた。岸本は幾度となく節子の返事を読み返して、彼女が書いてよこした短い言葉の間にはいろいろな心持の籠《こも》っているのを見つけた。彼女に言わせると、自分等の関係は最初こそあんなで有ったけれども、間もなく彼女が長い間求めていたものであることを見出したとある。この言葉は、長いこと岸本に疑問として残っていた彼女からの以前の手紙に、神戸で受取り巴里《パリ》で受取りしたかずかずの腑《ふ》に落ちなかった手紙に、彼女自身裏書して見せたようなものであった。岸本は長い旅に出ようとして神戸まで行った時、彼女から受取った最初の手紙の中に、既にもう彼が節子に対して気の毒がる一切の心持を彼女の方から打消してよこしたことを思出すことが出
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