ニ復た岸本が言った。久米は岸本のことを「先生、先生」と言って園子がまだ達者でいる時分から岸本の家の事情をよく知っている婦人であった。その人も勉強かたがたしばらく岸本の家を助けに来てくれることに成った。彼が新たに雇い入れた女中も矢張久米の世話であった。
 こうして岸本は祖母さんを借り、久米を借り、兄の家族と分離した後の簡易な生活を初めて見た。嫂達が別れて行った翌々日、岸本は節子からの手紙を受取って、それを祖母さんにも読んで聞かせた。静かな雨の音を聞きながら谷中の家の二階の三畳からこの御便《おたよ》りをすると節子は書いてよこした。彼女は長い長い間いろいろ御世話さまに成ったという礼なぞを述べ、引越は昨日でほんとに好かった、そちらでも矢張その御噂をしてくれたことと思うと書いてよこした。物哀《ものがな》しいあの空の色、寒い風に吹かれながら上野の公園側を歩いて来た時は心細かったと書いてよこした。ここへ着いてからは父の知人《しりびと》が手伝いの夫婦をよこしてくれて、自分等は御客さまのようなものであったと書いてよこした。昨夕《ゆうべ》はまた手伝いに来てくれたそのお婆さんに連れられて久し振《ぶり》で明るい町を歩いて見た、その人が帰ってしまってからも母と二人で遅くまで話したが、種々な思いで胸が一ぱいに成ってよく寝られなかったと書いてよこした。彼女はまた弟達の様子をも書き、今寄留届を認《したた》めたところだから一寸《ちょっと》その序《ついで》にこの知らせをする、すこし家が片付いたら御返しものかたがたそのうちに御機嫌《ごきげん》伺いにまいりたいとも書いてよこした。

        五十三

 最早《もはや》、節子は岸本の側に居なかった。彼女の母親も、彼女の弟達も居なかった。何となく下谷の住居《すまい》の方へ嫂を見送ったことを一くぎりとして、あの嫂が祖母さんや一郎を引連れ、郷里の方から出て来てくれた日以来の家庭の小歴史に、そこに一つの線でも引いたような区劃《くかく》が岸本には見えて来た。殊《こと》に岸本は節子と彼自身のために、互に別れ住む日の来たことを楽しく考えた。何故というに、不思議な運命を共にしようとする二人にあっては、互に抑制することを学ばねば成らなかったから。弱い人間である以上、もう一度岸本が遠い旅にでも出なければ成らないようなことが決して起って来ないとは限らなかったから。
 節子
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