d事を任せて置かれるだけでも、節子にはそれだけの身の余裕があった。岸本が旅にあった頃、欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争が始まって二度目の降誕祭《クリスマス》を迎える前に、彼の帰国の噂《うわさ》が一度留守宅へ伝えられた時の話なぞも、めずらしく節子の口から出て来た。
「父さんがお帰りなさるッて、泉ちゃんも繁ちゃんも夜遅くまで起きてたことが有りますよ。そのうちに泉ちゃんの方は寝ましたが、繁ちゃんはああいう子ですから、一晩ろくに眠らないで待っていましたっけ――よっぽどあの時は嬉しかったんですね」
 荷造りした家具なぞが部屋の隅《すみ》の方に積重ねてあるところで、雨の音で暗くなって行った夕方の空気の中に、節子は高輪で暮して見る最終の日を惜んだ。病のために苦労した彼女はいろいろな薬の名なぞをよく知っていて、岸本のために参考に成るような子供の持薬その他を紙に書残して置いて行こうとした。

        五十二

 朝早く運送屋は荷馬車を曳《ひ》いて来て家の裏木戸の外に馬を停《と》めた。いよいよ谷中行の人達の引移る日が来た。荷造りした世帯《しょたい》道具が車に積まれるのを待つ間も、岸本はこれから出発しようとする嫂達のために曇った天気を気遣《きづか》った。やがて彼は重そうに動いて行く荷馬車を見送って置いて嫂や節子等の出発の支度の出来るのを待った。
「節はまたちょいちょい祖母さんの許《ところ》へ来ておくれよ」
「ええ、上りますとも。どうせ私は叔父さんの御手伝いに参りますからね」
 と節子は答えて、一週に一度位ずつは叔父の手伝いかたがた祖母さんを見に来ることを約した。
 空は降り出す模様もなかったが、しかし寒そうに曇った色は最早冬季の近づいたことを思わせた。嫂と節子とは二人の子供を引連れ、門に出て見送る隣近所の人達にも挨拶《あいさつ》して、その寒い日に出掛けた。岸本は義雄兄の東京に居ないことを考えて、女子供ばかりで谷中の方に向おうとする人達の後姿が見えなくなるまでも家の外に立ちつくした。
「何だか急に家《うち》の内《なか》が寂しくなりましたね」
 と岸本は祖母さんに言って、嫂達を送出した後の部屋々々を歩いて見た。
「祖母さん、この長火鉢《ながひばち》の置いてあるところをあなたの部屋としましょう。今に久米《くめ》さんも来てくれましょうから、あの人には隣の部屋の方を宛行《あてが》いましょう」
 
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