ノ言う祖母さん、母や姉の帰りを待受けていた一郎と次郎、谷中の家の様子を聞こうとする岸本親子なぞが嫂達の側に集った。
「私はもう掃除に行って来たばかりで、あの家が厭《いや》になってしまいましたよ。暗いの、暗くないのッて」と嫂は岸本に言って見せて、一緒に電車で帰って来た節子の方をも見ながら、「どうして父さんはあんな家を借りる気に成ったろう。あの二階だけは明るいね」
「ええ、二階の方はねえ」と節子も母の顔を見た。
「でも二階の一部屋だけは随分暗い。あれじゃ何処《どこ》からも日の映《あた》りようが無い」
「溝《どぶ》が近くないと好いんですけれどね」
「まあ、御免|蒙《こうむ》って」と復《ま》た嫂が草臥《くたぶ》れたらしく言った。「節ちゃん、お前も御免蒙って足でもお出し」
「叔父さん、御免なさいね」
と節子も言いながら、母と二人してさも草臥れたらしい足を横に延ばすようにした。彼女は白足袋《しろたび》を穿《は》いた足を岸本の方へ投出しても、それを取繕おうともしないほどの親しみを彼に見せた。その日の節子は叔母さんの墓参りに行った日と同じように、平素に見られないような若さをも発揮した。
「でも、手伝いに来てくれた人があって好うござんしたよ。何もかもその人がしてくれましたよ」
こう節子は岸本に話しかけながら、母の側で片膝《かたひざ》ずつ折曲げるようにして、谷中まで行って来た足袋の鞐《こはぜ》を解いた。
「とにかく、御苦労だった」
と祖母さんも言って、一頃《ひところ》は電車に乗ってさえ眩暈《めまい》が起ったほどの節子に引越の手伝いの出来る時が来たことを悦《よろこ》び顔に見えた。
その翌日は朝から雨が来た。荷造りして待っていた嫂達は、否《いや》でも応でも引越を延ばさねば成らなかった。祖母さんも、嫂も、かわるがわる北向の縁側に出て、晴れそうもない空を眺《なが》めた。郷里の方に居る頃からずっと一緒に暮し慣れて来た祖母さんをこの高輪に残して置いて行くというだけでも、嫂に取っては心細そうであった。
「こんな雨なぞが降らないで、早く追出せば可《い》いのになあ」
と嫂は半分|独語《ひとりごと》のように言って、岸本をいやがらせた。
一日降り続いた雨は谷中行の人達を引留めて引越の支度を十分にさせたばかりでなく、祖母さんや岸本の側で語り暮す時をも与えた。岸本の方に頼んで置いた下女が来て、台所の
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