逕ス《かえ》って自分の心の軽くなるのを覚えた。
 岸本は自分の二階の方で節子と一緒に成った時、こう彼女に言って見た。
「吾儕《われわれ》の関係は肉の苦しみから出発したようなものだが、どうかしてこれを活《い》かしたいと思うね」
 この岸本の言葉は節子を悦ばせた。
「私だって叔父さんに随《つ》いて行かれると思いますわ――何でも教えてさえ下されば」
「お前のことを考えると、何と言うかこう道徳的な苦しみばかり起って来て困った」
「私だっても……」
 こうした二人の心持から言っても岸本は別れ住むことが互のために好いと考えることを節子に話した。
 その時に成っても、堅く結ばれた節子の口はまだそう容易《たやす》く解《ほど》けて来そうも無かった。彼女は思うことの十が一をも岸本に語り得なかった。彼女は無言をもって、言えない言葉に替える場合の方が多かった。そういう沈黙の間には、何処《どこ》までが悲しい嵐《あらし》の過去で、何処までが同じ運命に繋がれている今であるのか、その差別もつけかねるような心持が岸本には起って来た。
「節ちゃん、お前は何時までも叔父さんのものかい」
「ええ――何時までも」
 胸に迫って湧いて来るような涙と共に、節子は啜《すす》り泣く声を呑《の》んだ。

        五十一

 義雄が家族を引連れて移り住もうとする家は上野の動物園からさ程遠くない谷中《やなか》の町の方に見つかった。月の半ば頃には略《ほぼ》その支度《したく》が出来るまでに成った。兄は岸本の方の望みによって、年とった祖母さんだけを弟の家に残して置いて行くことにした。
 到頭岸本は何事《なんに》も詫《わ》びずじまいに、唯《ただ》その心を行為《おこない》に表すだけのことに止めて、別れ行く嫂《あによめ》を見送ろうとするような自分をその引越|間際《まぎわ》の混雑の中に見つけた。
「姉さん、要《い》る物がありましたら、何でもお持ちなすって下さい」と岸本は言って、古い家具や勝手道具の間に合いそうな物まで嫂に分けた。
 時雨《しぐれ》は早や幾度《いくたび》か屋根の上を通過ぎた。嫂が節子を連れて谷中の家へ掃除に出掛ける頃は、義雄は郷里の方に用事があると言って、引越の手伝いを人に頼んで置いて、兄自身は東京に居なかった。その日は嫂も、節子も、二人とも疲れて谷中の方から帰って来た。
「お帰りかい」
 と慰労《ねぎら》うよう
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