ユいと飛んで行ってしまった。
まだ庭の濃い椿《つばき》の葉なぞは明るかった。岸本はその足で庭から縁側の上に登《あが》って、仏壇のある部屋の方まで行って見た。仮令僅でも節子が自分に取れた報酬を母の手に渡すように成ったことは、何となく彼女の位置を変えて見せた。
「お蔭で、節も稼《かせ》ぐように成りましたよ。彼女《あれ》がお金を持って来て見せましたよ」
こう言う嫂の機嫌《きげん》の好い顔は実に何年|振《ぶり》で節子の見たものであったか、とそれを岸本も心ひそかに想像した。
四十八
「叔父さんの馬鹿やい」
と言いながら次郎は縁側に立って夕飯の時を待つ岸本の側へ寄った。この兄の二番目の子供は「馬鹿やい」を言うほど岸本に対しても遠慮が無くなって来た。どうかすると次郎は外来の食客を見るような眼で叔父を見た。次郎はまた父あり母ある自己《おのれ》の強さを示そうとするかのように、
「この野郎、打《ぶ》つぞ」
と岸本の方を見て肩を怒らした。嫂はそれを聞きつけたかして、
「次郎ちゃん、そうお前のように威張るんじゃないって言うに」
と子供を叱るように言った。そう言って叱るこの次郎が嫂にはまた可愛くて、可愛くて、眼の中へ入っても痛くないという風であった。
夕飯後に、岸本は自分の子供の側で時を送ろうとした。そこへ義雄兄も来て一緒に寛《くつろ》いだ。義雄は弟の留守中世話して見た子供の性質を言って聞かせるようにして、側へ来て立つ繁の方を岸本に指《さ》して見せながら、
「繁ちゃんか。この男はこれでなかなか滑稽家《こっけいか》です」
そう伯父に言われた繁はすこし身を跼《こご》めて薄笑いした。次郎がそこへ飛んで来た。次郎は父や叔父の見物のあるのを何より悦《よろこ》ばしそうにして、いきなり繁に組付いた。畳の上では二人の子供の相撲《すもう》が始まった。
繁は次郎に負けて見せた。それを見ていた義雄は繁のわざと投げられた呼吸がさも耐えられないかのように、
「繁ちゃんはそれでも、泉ちゃんと一ちゃんと三人の中では一番相撲は上手だ。まあ家中で、喧嘩をして一番強いのは一ちゃんだ。そのかわり相撲となると繁ちゃんに負ける。繁ちゃんはあれで子供のくせに、いくらか相撲の手を心得てるんだね」
こう言って義雄は笑った。その時岸本は一郎の方を見て、
「一ちゃんはなかなか敏捷《はしこ》いようですね」
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