b同棲《どうせい》のような現在の仮の状態を続けて行くべきでは無いと思って来た。義雄兄の残して置いて行った嫂の噂はこの決心を促させた。
「叔父さん、お父《とっ》さんは何か言いましたか」
と節子が家の方から洗濯物を擁《かか》えて来て一寸《ちょっと》岸本の二階へ顔を見せた。彼女は父がこの二階で話したことを心配顔に訊《き》いた。
「なんにもお前の話は出なかったよ」
と岸本は言って見せた。やがて彼は自分の紙入からいくらかの金を取り出して、それを節子の前に置いた。
「節ちゃん、これはお前の稼《かせ》いだ分だ。お前はそのお金を全部お母《っか》さんの方へ進《あ》げておしまい。お前の生活費だけは毎月これから俺の方で保証してあげる。叔父さんも旅から帰ったばかりで、何もかも一人では容易じゃ無いんだが――」
「どうも済みません」
と答えながら、節子は叔父のこころざしを帯の間に納めた。
その日は岸本も例《いつも》より早く二階を仕舞って家の方へ帰って行った。丁度家の格子戸《こうしど》の前で、古い池の方から長い黐竿を提《さ》げて戻って来る二人の子供と一緒に成った。一郎と繁だ。
「父さん。銀」
と繁は指の間に挾《はさ》んだ青い銀色の蜻蛉を父に見せた。
「へえ。お前達はよくそれでも感心にいろいろな蜻蛉の名なぞを知ってるね」
と岸本が言うと、繁は一郎の方を見て、
「蜻蛉の名ぐらい知らなくって――ねえ、一ちゃん」
「叔父さん、言って見せようか」と一郎は岸本の前に立って、「銀に、汐辛《しおから》に、麦藁《むぎわら》に、それから赤蜻蛉にサ」
「ホラ、黒と黄色の大泥棒――随分、あの池にはいろいろな蜻蛉が居るね」と繁は相槌《あいづち》を打った。
岸本は格子戸の内から直《す》ぐ玄関先へ上らないで、繁と一緒に潜戸《くぐりど》から庭の方へ抜けた。庭から長火鉢《ながひばち》のある部屋を通して奥の方までも見透される。祖母さんをはじめ、嫂、節子が夕飯の支度《したく》をしながら立働いているのが見える。
その時、岸本は庭の隅《すみ》に黐竿を立掛けた繁の側へ寄って、低い声で言った。
「繁ちゃん、お前は一ちゃんや次郎ちゃんと喧嘩《けんか》するんじゃないよ――次郎ちゃんはまだ幼少《ちいさ》いんだからね。いいかい。伯母《おば》さんの言うこともよく聞くんだぜ」
繁は点頭《うなず》いて見せたかと思うと直ぐ父の側を離れて、
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