hが、ある隠されたる働きが、仮令《たとえ》眼には見えず人には知られないまでも、帰朝者としてのお前の心を決して静かにしては置かないことが分る。旅から帰って来たばかりで、そう焦心《あせ》るな。先《ま》ず休め」
こういう声が岸本の耳の底の方で聞えた。最近に、彼は巴里馴染の小竹からも手紙を貰った。西伯利亜《シベリア》経由で彼より先に東京に帰っていたあの画家の消息の中にも、帰朝者としての心持が出ていた。小竹は極く正直に、何となく頭脳《あたま》がハッキリしないで、未だ画作にも取掛らないでいると書いて寄《よこ》した。それを読むと、岸本にはあの仏蘭西印象派その他の作品の模写を携えてリオンから巴里へ帰った時の小竹の草臥《くたび》れたらしい顔付を思出して、そう言って書いてよこした手紙の心持を懐《なつか》しんだ。
「して見ると、皆そうかなあ」
思わずそれを言って見た。日本に帰って半年ばかりの間、殆《ほとん》ど茫然《ぼうぜん》自失の状態にあったというある知人の言葉も彼の胸に浮んだ。
「ああああ――まるで自分のたましいは顛倒《ひっくりかえ》ってしまった」
と彼は歎息した。
旅の空で彼はよく帰国の日を想像したことを思い出した。何が国の方で自分を待受けていてくれるだろうとは、よく彼が自分で自分に尋ねた問であったことを思出した。実際、彼が旅人としての胸に描いて来たように、過去は過去として葬り、不幸な姪には新しい進路を与え、彼自身もまた家庭をつくり、早く母親に別れた泉太や繁のような子供等までも幸福にすることが出来るならば、実にこの世の中は無事であるけれども、もともと遠い旅にまで逃《のが》れて行ったほどのものがどうしてあの震える小鳥のような節子を傍観し得られたろう。彼は生きた屍《しかばね》にも等しい人を抱いてしまった。罪で罪を洗い、過《あやま》ちで過ちを洗おうとするような哀《かな》しい心が、そこから芽ぐんで来た。彼は片腕で足りなければ、節子のために両腕を差出そうとするように成った。でも未だ根岸の姪から賛成してよこした例の縁談を断ってまでも、節子を自分の肩に負おうとするほどの決心はつきかねていた。
四十五
身も心も投出して救いを求めているような節子の姿は、一日は一日よりそれがハッキリと岸本にも見えて来た。彼女は叔父と共にある時ばかり、彼女の若い生命《いのち》を楽むかのように
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