ゥえた。そして他の一切のことを忘れているように見えた。彼女の病も。彼女の不自由な境遇も。彼女の親や姉や従姉妹《いとこ》に対する強い反抗心も。長い艱苦《かんく》の続いた三年の間の回想はこうして旅から叔父を迎えたことを夢のように思わせるという風であった。彼女はよく岸本の側《わき》で熱い涙を流しつづけた。
 節子の実際に弱いことを証拠立てて見せるような日の来たことも有った。岸本は近くにある郵便局まで行くことを節子に頼んだ。秋の彼岸《ひがん》過の日あたりの中をすこし歩いたばかりでも急に彼女は気持が悪くなって来たと言った。郵便局から帰ると間もなく岸本の二階で倒れた。
「叔父さん、関《かま》わずに置いて下さい。このお部屋の隅《すみ》をしばらく拝借させて下さい」
 と節子は言って、二間ある二階の小部屋の方に静かに横に成った。彼女は持病の眩暈《めまい》が通過ぎるのを待とうとしていた。岸本が階下《した》へ降りて節子のために薬を探して来た頃は、未だ彼女の額は蒼《あお》ざめていた。
「節ちゃんも弱くなったねえ。そんなことで脳貧血が起って来るかねえ」
 と言いながら、岸本は探して来た薬を節子にすすめた。
「叔父さんの部屋には何物《なんに》も無い――病人に舞込まれても掛けてやる毛布も無い。ここはまるで俺の庵《いおり》だ」
 と復《ま》た岸本は言って見て、冷い水で絞った手拭《てぬぐい》なぞをすすめて節子をいたわった。
 時々岸本は自分の机の側を離れて節子を見に行った。彼女の額に載せた濡《ぬ》れ手拭は自然と彼女の顔の白いものを拭《ぬぐ》い落した。持って生れたままの浅黒い生地《きじ》がそこにあらわれていた。四人の姉弟《きょうだい》の中でも姉の輝子と弟の一郎とは郷里の方で生れ、次郎はこの東京の郊外で生れ、彼女一人だけが義雄の兄夫婦の朝鮮に家を持っていた頃に生れた。彼女の自然な顔の肌《はだ》の色は朝鮮から持って来た浅黒さだ。
 節子に起って来た脳貧血も割合に軽く済みそうに見えて来た。そのうちには岸本は静かに横に成っている姪《めい》をいたわりながら、こんなことを言って笑えるまでになった。
「随分お前も色が黒いんだね」
 そう言われた節子はまた壁の方へ向いて両手で彼女の顔を隠すほど元気づいた。
 家の方からは祖母さんが心配して一寸《ちょっと》この二階へ節子を見に来た。祖母さんが帰って行く頃、節子は既に身を
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