ト、仕事の手伝いに来る節子を待受けた。彼は手の悪い節子をいたわるようにして、旅の話なぞを筆記させた。まだ慣れない彼女の胸に浮ばないような文字でもある毎《ごと》に、彼はそれを紙に書いて教えた。どうかすると彼自身筆を執ってその話を書きつけるよりも多くの時間を要した。それにも関《かかわ》らず彼は節子に手伝わせることを楽みにした。
一仕事終った後、節子は紙や鉛筆なぞを片付けながら思出したように、
「泉ちゃんや繁ちゃんの大きく成った時のことも考えて見なけりゃ成りませんからねえ」
「お前はもうそんな先の方のことを考えているのか」
と言って岸本は笑った。節子がよく考えて見ようと前の日に言ったのも、主に泉太や繁のことで、彼等がずっと成長した後の日にはいかに自分等二人のものを見るかというにあるらしかった。
「お前はそんなことを言っても、ほんとうに叔父さんに随《つ》いて来られるかい」と復た岸本が言って見た。
「私だって随いて行かれると思いますわ」
こう節子は答えたが、何時の間にか彼女の眼は涙でかがやいて来た。ややしばらく二人の間には沈黙が続いた。
「今度こそ置いてきぼりにしちゃいやですよ」節子の方から言出した。
「何だか俺は好い年齢《とし》をして、中学生の為《す》るようなことでも為《し》てるような気がして仕方がない」と岸本は言った。「節ちゃん、ほんとに串談《じょうだん》じゃ無いのかい」
「あれ、未《ま》だあんなことを言っていらっしゃる――私は嘘《うそ》なんか言いません」
四十四
実に一息に、岸本はこうしたところまで動いて行った。九月も末になって見ると、彼は自分の帰国後の一夏が激しい動揺の中に過ぎて行ったことを感じた。前には彼の心は遠く巴里の下宿に別れを告げて来た頃の方へ帰って行った。あの下宿の食堂から円《まる》い行燈《あんどん》のような巴里の天文台の塔の方に日暮時の窓の燈火《あかり》の点《つ》くのを望み望みした旅の心で、今の自分を考えて見た。
「お前は長旅に疲れて来た。思えば帰朝者の心理は世の多くの人々によって想像されるほど幸福なものでは無い。激しい神経衰弱に掛るものがある。強度に精神の沮喪《そそう》するものがある。いろいろな病を煩《わずら》うものがある。突然の死に襲われるものがある。驚かれるではないか。それを見ても、異常で複雑な作用が、制《おさ》えがたい動
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