ン苦みを通って来た人が居た。どうかすると岸本は兄や嫂《あによめ》なぞの認めもせず、また認めようともしないものをこの節子に見つけることが出来るように思って来た。三年前に比べると、それだけもう二人の位置が変って来ていた。

        四十

 仮の書斎とした部屋の押入には岸本が自分の身体を養うつもりで買って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》が入れてあった。仏蘭西《フランス》産としてあって、旅で飲み慣れたように価もそう安くは求められない。彼はその壜《びん》を押入から取出して、
「こいつは自分で飲むつもりだったが、まあそっちへ進《あ》げる。下手《へた》な薬なぞよりは反《かえ》ってこの方が好い。毎日すこしずつお上り」
 と言って節子の前に置いた。
「節ちゃんはそんなに酷《ひど》く瘠《や》せたようにも思われないが――」と復《ま》た彼は言葉を継いだ。「それでも前から比べるとずっと瘠せたかねえ。お前は元から瘠せたような人じゃなかったか」
「前にはこれでも肥《ふと》っていましたとも」と節子はすこし萎《しお》れながら「祖母《おばあ》さんがよくそう言いますよ――『あんなに肥っていた娘がどうしてそんなに瘠せてしまった』ッて」
「お前の髪の毛だって、そんなに切れてもいないじゃないか。そんなに有れば沢山じゃないか。お前が巴里《パリ》へよこした手紙には、心細いほど赤く短く切れちゃったなんて書いてあったっけが」
「漸《ようや》くこれだけに成ったんですよ――」
 と節子は言って、生《は》え際《ぎわ》のあたりの髪の毛をわざと額のところへ垂《た》れ下げて見せた。
「節ちゃんは苦労して、以前《まえ》から比べるとずっと良くなった。何だか俺《おれ》はお前が好きに成って来た――前にはそう好きでもなかったが」
 めずらしく岸本はこんなことを言出した。それを聞くと節子はいろいろなことを思出したように、叔父が遠い国へ行くからこうして復た一緒に話の出来るまでの彼女自身の艱難《かんなん》な月日のことを胸に浮べるという風で、首を垂れたまま黙ってしまった。
 やがて岸本は節子に葡萄酒を持たせて家の方へかえしてやった。その時になってもまだ彼は再婚の望みを捨てなかった。自分[#「自分」は底本では「自然」]も適当な人と共に家庭をつくり、節子にもまた新しい家庭の人となることを勧めようというその旅から持って帰って来た考えは彼を支配していた
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