Aそれにともなう苦痛も多い。しかしそれによって与えられる快感は何ものにも見出《みいだ》すことが出来ない……自分の眼に見、耳にきき、自分の足で歩まなければ成らぬ」

        三十九

 まだその他に節子が読んで見てくれと言って置いて行ったものの中には、岸本の帰りの旅を待受ける頃の彼女の心持を書いたものがあり、彼女が産後の乳腫《ちちばれ》で切開の手術を受けるためにある小さな病院に居たという頃のことを日記風に書いたものもあった。いずれも尖《とが》りすぎるほど尖った神経と狭い女の胸とを示したようなもので、読んで見る岸本には余り好い気持はしなかった。
「ほんとに、愛したことも愛されたことも無いような不幸な人だ」
 と岸本は言って見た。
 節子は母親に許されて家の方から岸本を見に来た日のことであった。いくらかでも叔父の仕事を手伝うことは、こうして彼女の通って来る機会を多くした。まだ彼女は叔父の談話なぞを筆記するに慣れていなかった。それに彼女に与える仕事もそう時を定めて有る訳ではなかった。その日は彼は節子のやって来てくれたことに満足して、取り散らした部屋の内でも片付けて貰《もら》おうとした。
「でも、浅草の方に居た時分から見ると、よっぽどお前も違って来たね」
 と岸本は節子の方を見て言った。節子は相変らず言葉も少なかったが、でもこうした延び延びとした気持で居られるのはこの二階に居る時だけだという風で、部屋の隅《すみ》にある茶道具の方へ行ったり床の間に積重ねてある書籍の方へ行ったりして、そこいらを取片付けていた。
「これまでお前がいろいろな目に逢《あ》ったのは無駄には成らなかったと思うね。結局お前を良くしたと思うね」
 とまた岸本が言って見せると、節子は叔父からそう言われることをさも張合のありそうにして、軽く溜息《ためいき》を吐《つ》いて見せた。
「お前の心持なぞはお母さん達とは大分違って来ているんだろう」
「みんな――裏切られてしまうんですもの」
 節子は僅《わず》かにそれだけのことを言って、俯向《うつむ》いてしまった。
 何となく岸本の眼には以前の節子とは別の人かと思われるほどの節子が見えて来た。学校を出てまだ間も無かったような娘らしい人のかわりに、今はずっと姉さんらしい調子で物を言う人が居た。なんにも世の中のことを思い知らなかったような人のかわりに、今はいろいろな悲し
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