@       三十五

 しばらく寺の庫裏にも時を送って、やがて境内の敷石づたいに門の外へ出た頃は、八月の日の光がもう大久保の通りへ強く射して来ていた。
 眼に見えない混雑は岸本の行く先にあった。何故かと言うに、こんな墓参りなぞに節子を連れて来たからで。岸本は黙って歩いた。節子も黙って歩いた。二人の沈黙を破るものは唯子供等の間に起る快活な笑声であった。岸本は節子や子供等を休ませるために往《い》きに節子が寄って花を買った家の附近を探した。その辺には旗の出ている小さな氷店ぐらいしか見当らなかったが、そんな店も、新開の町も、以前岸本が住んだ頃の大久保には無いものであった。
 泉太や繁は父と一緒にその店先に腰掛けて、氷の削られる涼しそうな音を聞くだけでも満足した。
「一ちゃん、氷が来ました」
 岸本は氷の盛られたコップを一郎にも勧め、泉太や繁にも分けた。
「泉ちゃん、氷レモンだぜ。父さんも奢《おご》ったねえ」と繁はコップを手にして言った。
「ああ好い香気《におい》だ」と泉太も眼を細くして、手にした匙《さじ》でコップの中の氷をさくさく言わせた。
「節ちゃん、氷は?」と岸本が訊《き》いた。
「すこし頂《いただ》きましょうか」と節子は答えて、人一倍皮膚の感覚の鋭くなっているような病のある手を揉《も》んで見せた。
 節子は叔父に対して言葉が少いばかりでなく、弟の一郎に対しても少かった。陽気で話好きな姉の輝子に思い比べたら、以前からして彼女は物静かな言葉の少い方の性質の人であった。でも、これほど黙ってしまった人では無かった。その日のように冴《さ》え冴《ざ》えとした眼と、物も言わない口唇《くちびる》とは、延びよう延びようとして延びられない彼女の内部《なか》の生命《いのち》の可傷《いたま》しさを語るかのようでもあった。
 墓参りも岸本に取っては帰国後の訪問の一つであった。訪ねられるだけ人を訪ねて見たいと思うその心持から言えば、まだまだ彼は思うことを始めたばかりだ。しかしこの墓参りを一切りとして身体《からだ》を休めたいと考えるほど、人知れず制《おさ》えに制えて来た激しい疲労を感じていた。氷店の直《す》ぐ外まで射して来ている日あたりを眺めて、余計に彼は休息を思うようになった。
 帰路《かえりみち》に向う子供等を送るために、岸本はそこまで一緒に歩くことにした。彼は往きよりも帰りの節子のことを
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