「ますが――」
 と言出した。何事《なんに》も知らずに郷里《くに》から出て来たという祖母さんは、三年このかた節子の瘠《や》せ衰えたのを一つの不思議のようにして、多病な彼女のためにいろいろと気を揉《も》んでいた。
 義雄に取って、祖母さんは義理ある母親に当っていた。嫂がこの年老いた婦人の一人娘であった。義雄は岸本の家から出て、母方の岸本の姓を継いだ人だけに、祖母さんに対しては遠慮のある口調で、
「捨吉も帰って来たものですし、あれとも相談して何とか方法を講じます」
「なにしろ、節の手が悪くなってから、もうかれこれ三年にも成るで」と祖母さんが言った。
「一度医者には診《み》せましたが」と義雄はそれを遮《さえぎ》るようにして、「その医者の言うには、これは悪い病気に罹《かか》ったものだ、余程の専門家にでも掛けなければ治《なお》らない、それにしても、この手はなかなか長くかかる――そう言って節を帰してよこしました。もしまたあんな風で、到底お嫁にも行けないようなものなら、まあ一応は治療をさせて見ての上の話ですが――何処《どこ》の家にだって片輪の一人ぐらいはよく出来るものです、そう思ってあきらめるんですね」
 こういう兄の話は強く岸本の耳に徹《こた》えた。
 旅にある日、節子を両親に託《たく》してから、岸本の心では、どうやら彼女を破滅から救い得たものと考えていた。節子に持上る縁談のことを聞く度に、一層彼は彼女の回復を確かめたように思っていた。旅から帰って来て見た。節子は弱々しい人であった。しかし彼女が廃人としてまで周囲の人達から見られるほど不具なものに成り行こうとは、どうしても岸本には考えられなかった。「片輪の一人ぐらい」この兄の言葉はひどく岸本を驚かした。
 その心で、翌朝早く岸本は台所の方へ顔を洗いに行った。嫂も、祖母さんもまだ起出さない頃であった。節子一人だけがしょんぼり立働いていた。
「何時《いつ》までそんな機嫌《きげん》の悪い顔をしているんだろう」
 そう思いながら岸本は台所から引返そうとした。口にも言えないような姪の様子はその時不思議な力で岸本を引きつけた。彼は殆《ほと》んど衝動的に節子の側《そば》へ寄って、物も言わずに小さな接吻《せっぷん》を与えてしまった。すると彼が驚き狼狽《あわ》てて節子の口を制《おさ》えたほど、彼女は激しい啜泣《すすりなき》の声を立てようとした。


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