tのところから眺めた。そこの石垣は以前自分の腰掛けたところだ、ここの船宿の前は以前自分の小舟を出したところだ、と言うことが出来た。七年住慣れた町の方まで歩いて行って見た。旧《ふる》い住居《すまい》であった家は、表の見附《みつき》からして改まり、人も住み変り、唯往来から見える二階のところに彼の残した硝子戸《ガラスど》だけが遠い旅に出るまでのことを語っていた。彼は旧馴染《むかしなじみ》の家々をも訪ねて見た。その中には、日に焼けた彼の頬《ほお》と、白くなった彼の鬢《びん》と、髭《ひげ》の無くなった彼の顔とを見つめたぎり、しばらくその訪問者が旅から帰った彼であることを信じられないかのような面持《おももち》の人さえあった。
岸本はその町について柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔《かわぎし》から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。あのオステルリッツの石橋の畔《たもと》からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。
三十一
家をさして品川行の電車で帰って行く度《たび》に、岸本はよく新橋を通過ぎて、あの旧停車場から旅に上った三年前のことを思出した。その日の帰路《かえりみち》にも彼は電車の窓から汐留《しおどめ》駅と改まった倉庫の見える方を注意して、市街の誇りと光輝とを他の新しいものに譲ったような隠退した石造の建築物《たてもの》を望んで行った。それほど彼にはまだ旅行者の気分が失《う》せなかった。多くの場合に彼は電車の片隅《かたすみ》に立って、他の乗客をめずらしく思い眺めて、半分異国から来た人のような心持で乗って行った。
嫂や祖母さんは家の方で夕飯の支度《したく》をしながら、岸本の帰りを待っていた。節子も皆と一緒になって働くだけはよく働いていた。時々岸本は節子の方を見てそう思った。一体嫂達は何か深く思い沈んだようなあの節子をどう見ているのだろうかと。嫂はこんなことはもう毎々だという顔付で、節子が家のものと口を利かないほど黙りこんでしまっていても、さ程気にも掛らないかのようであった。
その晩、岸本は兄と二人で奥の部屋に話し暮した。そこへ祖母さんも来て、
「節もまあ、あの手をどうかしてやらんけりゃ成るまいかと思
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