サれほど彼女を力の無いものとした根本の打撃は争われなかった。
 節子の低気圧の何であるかは、どうしても岸本には知ることが出来なかった。それとなく岸本は姪の様子を見に行ったこともあった。北向の部屋の外には、裏木戸から勝手へ通う僅《わず》かばかりの空地がある。そこには日頃《ひごろ》植物の好きな節子が以前の神田川に近い家の方から移し植えた萩《はぎ》がある。その花の押されたのは節子の便《たよ》りと共に巴里の下宿の方へ届いたこともある。三年も経《た》つ間には萩も大きくなった。節子は縁側に出て、独りで悄然《しょんぼり》と青い萩に対《むか》い合って、誰とも口を利《き》きたくないという様子をしていた。

        三十

 ある日も、岸本は以前住った町の方に旧知を訪ねるつもりで、家を出る前に皆と一緒に食卓に就《つ》いた。丁度昼飯時で、兄の家族をはじめ学校の早びけを楽しむ泉太や繁まで一同そこへ揃《そろ》った。
「叔父さんが仏蘭西から帰って来てから、家のものはまだ皆《みんな》遠慮しています。皆これで猫を冠《かぶ》っています」
 こんなことを串談《じょうだん》半分に義雄が言出した。
「どうして、一ちゃんなんかだって泉ちゃんや繁ちゃんの次席《つぎ》に坐らせられて、叔父さんでも居なかろうものならああして黙って食べているもんじゃない。皆これで猫を冠っています。この猫が冠りきれれば大したものだが――それこそ万歳だが」
 と復《ま》た義雄が言った。泉太や繁等は義雄|伯父《おじ》から何を言出されるかという顔付で、伯父と並びながら食べていた。
「自分だっても猫を冠ってるくせに」
 と嫂は義雄の方を見て鋭く言った。この嫂の皮肉は義雄を苦笑《にがわらい》させた。
 節子は母親と一郎の間に坐って、頭をさげたぎり、物も言わずに食べていた。何となく彼女の楽まない容子は、岸本にはそれがよく感じられた。
「まだ節ちゃんはあんな顔をしている」
 そう思いながら岸本はその食卓を離れた。
 どうしてそんなに節子の低気圧が続いているか。原因の知れないだけに、岸本には可哀そうに成って来た。それを気に掛けながら、彼は高輪の家を出て、岡に添うた坂道を電車の乗場まで歩いた。
 電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸《かし》がもう一度岸本の眼にあった。岸本は橋の上に立って、曾《かつ》てよく歩き廻ったその河岸を橋の欄《てすり
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