@実に突然に、節子は沈んでしまった。それは岸本が来訪の客のいくらか少くなったのを見計らって自分の方から毎日訪問の為に出歩いている頃であった。折角元気づいて働いていた節子が何故そんなに急に鬱《ふさ》いでしまったのか、何が面白くなくてまるで萎《しお》れた薔薇《ばら》のように成ってしまったのか、さっぱり岸本には訳が分らなかった。
「節ちゃんはどうしたというんだろう」
 と彼は独《ひと》りで言って見て、あまりに急激に変って来た彼女の容子《ようす》に驚かされた。
 何か節子は義雄兄から叱《しか》られたことでもあるのか。岸本の見るところでは、別に何事《なんに》も家の内には起っていなかった。何か彼女は母親の仕向けを不満にでも思うことがあるのか。別にそんな様子も見えなかった。
「きっとこういう調子で、自分の留守の間にも姉さん達を困らせたんだろう」
 と復《ま》た言って見て、帰国早々面白くもない顔を見せつけられる彼女の神経質と、自制力の乏しさとに、すこし彼は腹立たしいような気にさえ成った。
 岸本に言わせると、彼が節子に対して済まなかったと思うことは今更繰返すまでもない。唯《ただ》それを赦《ゆる》して貰《もら》おうが為に、出来ることなら一生の失敗から出発して更に新規な道を開こうが為に、一旦《いったん》は帰るまいと思った心をひるがえしてもう一度自分の国へ帰って来た。旅は幸いにも多くの生活の興味を喚起《よびおこ》した。彼は自分でも再婚する心であり、節子の縁談でも起った場合には蔭《かげ》ながら尽すつもりでいる。そして彼女のために進路を開き与えようと心がけている。そのことを義雄兄の前でも話し、兄もまたひどく彼の再婚説に賛成してくれた。節子が沈んでしまわねば成らないほど希望を失うようなことは、彼女の前途には見当らなかった。
 そこで彼は一つの言葉を思いついた。どうしても原因の分らない彼女の濃い憂鬱《ゆううつ》を「節ちゃんの低気圧」という風に言って見た。その日まで彼はなるべく彼女を避けるようにし、直接に言葉を掛けることをすら謹《つつし》み、唯遠くから彼女を眺めて来た。言葉を替えて言えば、彼はまだ真面《まとも》に節子を見得なかった。不思議な低気圧が来て見ると、彼は否《いや》でも応でもこの黙し勝ちな不幸な人の容子を注意して見ない訳にいかなかった。

        二十九

 毎日のように岸本は訪問
前へ 次へ
全377ページ中218ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング