モワでが、その絵葉書の中にあった。丁度その図面にあらわれているのも岸本が旅で逢《あ》ったと同じ季節の秋で、よく行って歩き廻ったヴィエンヌ河の畔《ほとり》の旅情を喚起《よびおこ》すに十分であった。
「父さん。ここにお船の絵葉書もあるよ」
と言って繁が出すのを岸本は手に取って見て、
「これは父さんが往《い》きに乗って行ったお船だ。父さんはお前、こういうお船で遠い国の方へ行って来たんだぜ」
「そんなに遠い?」
「お前達は海を見たことがあるかね」
「品川へ行けば海が見える」と繁が答えた。
「僕は鎌倉へ修学旅行に行った。あの時に海を見て来た」と泉太は言った。
どんな海の向うにこの子供等の知らない国があるかということは、岸本には一寸《ちょっと》それを言いあらわすことが出来なかった。
泉太も繁も、真黒に日に焼け汐風《しおかぜ》に吹かれて来た父の顔を見まもっていた。この子供等を側に置いて岸本は自分の遍歴して来た港々の奇異な土人の風俗や、熱帯の植物や、鰐《わに》、駝鳥《だちょう》、山羊《やぎ》、鹿《しか》、斑馬《しまうま》、象、獅子《しし》、その他どれ程の種類のあるかも知れないような毒蛇や毒虫の実際に棲息《せいそく》する地方のことを話し聞かせた。
「ホウ。鯨。鯨」
と二人の子供は互に言い合って、まるでお伽話《とぎばなし》でも聞いているような眼付をしながら、鯨の捕《と》れたのを見て来たという父の旅の話なぞに耳を傾けた。
まだ岸本は海から這《は》い上って来たばかりの旅行者のような気もしていた。彼の心は還《かえ》りの船旅に通過した赤道の方へも行き、無数な飛魚《とびうお》の群れ飛ぶ大西洋の波の上へも行った。十字架の形をすこし斜に空に描いたような南極星も生れて初めて彼の眼に映じたものであった。暗い海を流れる青い燐《りん》の光も半ば夢の世界の光であった。倫敦《ロンドン》を出発してから喜望峰《きぼうほう》に達するまで、彼は全く陸上の消息の絶え果てた十八日の長い間を海上にのみ送って来た。船は南|阿弗利加《アフリカ》ダアバンの港へも寄って石炭を積んで来た。新嘉坡《シンガポール》に近づく頃望んで来たスマトラの島影、往きに眺め還りにも眺めた香港《ホンコン》の燈台、黄緑の色に濁った支那《しな》の海――こう数えて来ると実に数限りも無い帰国の旅の印象が彼の胸に浮んで来た。
二十八
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