た。
遠く国を目ざして帰って来た岸本の心――その心は彼に取って失うことの出来ない大切なものであった。その心から言えば、彼は兄にも詫《わ》び、嫂にも詫びなければ成らなかった。意外にも再び兄の無事な顔を見た最初の時から彼はその心を抑《おさ》えられるように成った。「お前はもう何事《なんに》も言うな」と兄の眼が強く物を言った。しかし、それは岸本の本意では無かった。もとより彼は兄夫婦に詫びなければ成らないと思った。それから、自分のためにあれほどの深傷《ふかで》を負わせられながら、しかも彼女自身|何等《なんら》の償いを求めようとする気色《けしき》も無いような節子に対しては、誰にも勝《ま》して詫びる心を実際に自分の身に表《あらわ》さねば成らないと思った。
二十五
長い旅から帰った巡礼のようにして留守宅の敷居を跨《また》いだ岸本は、漸くのことで自分の子供等の側に休息らしい休息を見つけるように成った。訪ねて来てくれる客も多く、誰を見ても逢いたいと思う人ばかりで、帰国後は思ったより多忙《いそが》しい日を送ったが、その中でも彼は泉太や繁をそれまでに大きくしてくれた人達への礼奉公を志した。彼は自身の力に出来るだけのことをして、不遇を憤り忍んでいるような兄や、ちょいちょい愚痴も出る嫂や、年とった祖母《おばあ》さんなぞを慰めようとした。兄の気象として、うんと大きく邸《やしき》を構えるか、さもなければどんな侘《わび》しい住居にもじっと我慢するか、どちらにしても中途半端《ちゅうとはんぱ》なことが出来ないようなところから、家の垣なぞが荒れ廃《すた》れても唯《ただ》それは人の見るままに任せてあった。岸本はこの屋根の下に多少なりとも清新なものを注ぎ入れるようにと努めた。どうかすると共倒れにでも倒れそうな気のするほど澱《よど》んだ家の空気の中から、何かしら生れて来るもののあるのを楽みにした。旅から帰って彼が見た節子は、朝も早く起き、嫂を助けながら家事の手伝いをして、すくなくも気を腐らせないで働いている人であった。「お前が帰って来てから、節ちゃんも大分元気づいた」――この兄の言葉から、岸本は自分の帰国が彼女にも多少の希望を与えたことを知った。なにしろ旅の空にある時でも、一番気に掛ったのは彼女のことであったから。その心から彼はすくなからぬ歓喜《よろこび》を自分の身に覚えた。
「父さん
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