浮ッられたりであった。その親譲りの精神に富んだ兄の情誼《じょうぎ》に対しても、岸本は今々自分が国へ帰って来たばかりだ、まだ息を吐《つ》く間も無いとは、どうしても言えなかった。多くの人に心配ばかり掛けて来た自分の旅が実際|如何《いか》なるものであったか、その中で子供等を養おうとした自分の苦心をも察して欲しいとは、どうしても言えなかった。まるで兄夫婦を欺くようにして旅に上った自分の行為《おこない》――それだ。第一それだ。「出来たことは仕方が無い、お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言って、自分の一生の失敗を大目に見てくれたような、この兄の言うことなら、仮令《たとえ》どんな無理なことでも彼はそれを聞かなければ成らないように思った。

        二十四

 岸本は誰も家の人の居ないところへ行って、独《ひと》りで自分の右の手を出して見た。そして自分に問い、自分に答えた。
「矢張《やっぱし》、金の問題が附いて廻る――どうも仕方がない」
 岸本はあだかも、手相を観《み》る占者《うらないしゃ》の前にでも出して見せるような手付をして、自分で自分の手を眺めた。その手を他から出された手のようにして出し直して見た。実際、それは誰の手でも無かった。自分の罪過そのものが何処《どこ》から出すともなく出してよこす暗い手だ。
 岸本はもう一度その手を出し直して見た。誰にも知れないように自己の罪迹《ざいせき》を葬ろうとしているような人間のはかなさをよく知るものでなければ、どうしてそんな手のあることを感じ得られよう。それは押頂いても足りないほど感謝すべき手だ。しかし掛引の強い手だ。自分の弱点を握っているような手だ。岸本はつくづく自分の手を眺めて、非常に暗い気持がした。
「姉さん、私も帰って来たものですし、今日からこの家は私にやらせて下さい」
 と岸本は嫂の居る部屋の方へ行ってそれを言った。まだ旅行免状なぞのそっくり入れてある紙入から当座の小遣《こづかい》を出して嫂の手に渡した。
 同じ船で帰国した牧野から手紙で約束のあった日に、岸本は横浜の税関まで残りの荷物を受取りに行って来た。神戸から横浜の方に廻った馴染の船はまだそこに碇泊《ていはく》中で、埠頭《ふとう》に横たわる汽船の側面や黒い大きな煙筒《えんとつ》は一航海の間の種々様々な出来事を語っていた。岸本はその税関の横手からもう一度青い海をも近く望んで
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