tに挾《はさ》まれるような、書籍《ほん》や書類などを納《い》れるための実用向の手鞄であった。
「や。好いものをくれるナ。こいつは貰《もら》って置こう」
と義雄は機嫌《きげん》が好かった。
岸本の帰国を聞いて戦時の巴里の消息を尋ねに来る新聞雑誌の記者、その他|旧馴染《むかしなじみ》の客なぞで、一しきり家の内はごたごたした後であった。まだ岸本は長い旅から持越した疲労《つかれ》をどうすることも出来なかった。神戸へ上陸するからその日まで殆《ほとん》ど彼は休みなしと言っても可《い》いくらいに自分を待受けていてくれた国の方のものに触れ続けた。東京へ帰って来て見ると、あの京都の宿でせめて半日なりとも寝転《ねころ》んで来て好かったとさえ思うくらいであった。
その疲労を制《おさ》えながら、岸本は奥の部屋の方で自分を呼ぶ兄を見に行った。
「捨吉。まあ坐れ。今はいろいろ話すことがある」
と義雄は言って、弟の留守中に訪問を受けた人達の名とか、兄自身に対して厚意を寄せてくれた人達の名とか、殊《こと》に弟の留守中に兄の一時|煩《わずら》ったことから、その折に援助を受けた親戚《しんせき》の名とか、それらを岸本に話し聞かせた。万事|上手《うわて》に、上手にと、手強《てごわ》く出ようとする方の兄は、言うだけのことを言ってしまわなければ気が済まないという風で、それから自身に書いた書付を出して岸本に見せた。
「これは、まあ参考までに見せて置くが――」
と言って義雄は別の書付をも出した。
「嘉代《かよ》(嫂の名)、お前の方の書付も叔父さんに出して見せるといい」
と義雄は嫂をもその二人ぎりのところへ呼んで言った。
岸本は手を揉《も》みながら兄夫婦の前を引きさがった。その時になって彼は自分の留守中いかに兄の骨の折れたかを知った。「お前が仏蘭西から帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ」と言って以前に手を分った兄の身にも、まだ時節というもののめぐって来ていないことを知った。そればかりではない、恐らく後になって振返って見ても、自分の留守の三年が兄の生涯の中での一番苦しい時代であったろうということをすら知った。彼はまた、自分の許され難い罪過がとにもかくにも三年の間この家を支《ささえ》る細い力の一つであったような、そんな世の中の不思議にも思い当った。幾つかに分れた岸本兄弟の家の過去は互に助けたり
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