チた。
「私も先刻《さっき》からそう思って見てるところなんですが」と愛子(根岸の姪)の夫も岸本の方を見て、「大分叔父さんは黒くなっていらしった。前にはお髭《ひげ》もおあんなすったようでしたね。どうしてあんな好いお髭を取っておしまいなすったか。何だかお顔がすこし変ったようにも見える」
「これでも、いくらか異人臭くなって帰って来ましたろうか」
 こう岸本は言い紛わした。
 仏蘭西の方で岸本が見聞して来た旅の話は、愛子の夫なぞの聞きたがることであった。大川端《おおかわばた》の方に住む田辺の弘――岸本が恩人の息子さんも、岸本の東京に着いたことを知って訪ねて来た。三年経《た》って復《ま》た一緒に成って見ると、弘ももう立派なお父さんだ。この人の肥《ふと》った体格は亡《な》くなった恩人にますますよく似て来た。こうした旧馴染《むかしなじみ》の客に加えて、旅の話を求めに来る新聞記者なぞもあって、ほとほと岸本は底疲れに疲れている自分の身を忘れた。
 夕方には祖母さんの上げた燈明が仏壇のある部屋の方で光った。岸本はその仏壇の前へ行って、亡き園子をはじめ三人の女の児の古く錆《さ》びた位牌《いはい》が燈明の光に映るのを見た。遠い旅に行く出発の前夜まで無かった古い位牌や仏具なぞは、祖母さん達の郷里から携えて来たものと知れた。嫂や節子は勝手の方から通って来てその仏壇の側を往ったり来たりした。
 岸本は節子に近づくことを避けていた。帰って来てまだろくろく口を利《き》こうともしなかった。唯それとなく彼女の容子《ようす》を見ようとした。彼の眼に映る不幸な犠牲者は遠く離れていて想像したほど変り果てた姿でも無かったので、それには彼はやや安心した。その日の夕飯には、義雄の家族、二人の親戚、泉太や繁まで一緒に食卓に就いた。岸本が帰国の祝いとして、生蕎麦《きそば》の盛《もり》二つずつ出た。兄の家の倹約なことも、骨の折れることも、この馳走《ちそう》が一切を語っていた。岸本は涙のこぼれるような思いをしながら、久し振《ぶり》での夕食を難有《ありがた》く頂戴《ちょうだい》した。

        二十一

 その晩、岸本はまだ旅から帰りたての客のような形で、兄の義雄と同じ蚊屋《かや》の内に寝た。高輪《たかなわ》にあるこの新開の町ではもう一月も前から蚊屋を釣《つ》るという。久し振で帰って来た屋根の下に、古い麻蚊屋の香《に
前へ 次へ
全377ページ中208ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング