oって行った。あのどんよりとした半曇りのような空から泄《も》れる巴里の日あたりとは違って、輝きからして自分の国の方の七月らしい日の光が坂道を流れていた。強い照返しは日除《ひよけ》を掛けた車の中にも満ちた。どうかすると、その日あたりを見て乗って行く彼の頭脳《あたま》の内部《なか》まで射《さ》しこんで来るかと思われるほど強く。車が動く度《たび》に近づいて行く留守宅の方のことは、そこに彼を待つ人達のことは、眼に見る日あたりのまぶしさに混って、しきりに彼の胸を騒がせた。彼は兄を見るの切なさにも勝《まさ》り、嫂《あによめ》を見るの苦しさにも勝って、あの節子を見るには耐えないような気がして来た。自分の不徳ゆえに、罪過ゆえに、いかに彼女が変り果てているだろうかとは、それを想像して行くだけでも耐え難かった。
喘《あえ》ぎ喘ぎ坂を登って行った車夫は高輪の岡の上まで出ると急に元気づいた。なるべく遅くと注文したいほどに思っている客を乗せて、車はぐんぐん動いて行った。ある横町に折曲ると、その角に煙草屋がある。ふと岸本はその辺に遊んでいる男の児の後姿を見かけて、それが自分の二番目の子供ではないかと思った。
「繁ちゃんじゃないか」
思わず彼は車の上から声を掛けて見た。
見違えるほど大きくなった繁はそう言って声を掛けられたのを何と思ったのか、日除の掛った車の方をもよく見ないで、
「父《とう》さんはまだ帰らないよ」
と言い捨てながら、何か嬉しそうな声を揚げて急に家の方へ駆出して行った。そこからはもう留守宅の格子戸《こうしど》の見えるほど近かった。
十八
忍びがたいのを忍んで岸本が家の前に停《と》めさせた車から降りた時、軒下の壁の破れや短い竹垣の荒れ朽ちたのが先《ま》ず彼の眼についた。荷物を卸す音なぞを聞きつけて誰よりも先に入口の格子戸のところへ飛んで出て来たのは嫂であった。嫂は内側から格子戸を一ぱいに開けてくれた。
「やあ、お帰りかね」
と言って義雄兄は玄関先に立った。続いて兄の子供も、繁もそこへ集った。岸本は旅姿のまま入口の庭に立って一度に皆と顔を合せた。祖母《おばあ》さんの後方《うしろ》に立つ節子をも見た。彼は自分で自分の顔色の苦しく変るのを覚えた。
やがて岸本は家の人達に迎え入れられた。順に一人ずつ挨拶《あいさつ》があった。岸本は兄の前にも頭をさげ、嫂の前に
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