ェ》しさを予想して、せめて半日その宿の二階座敷で寝転《ねころ》んで行こうとした。同じ部屋には旅行用の画具なぞをひろげた画家が居て、
「巴里の連中ですか。僕はまだ誰にも逢いませんよ。めったに皆と一緒になるような機会も有りませんよ。国へ帰ると、みんな澄ますように成っちゃって駄目ですね――ちっとも面白か無い」
 こんな話をしながら画作に余念の無い人の側で、時には宿の女中が階下《した》から上って来て話し聞かせる上方言葉をもめずらしく思いながら、岸本は苦しいほど疲れた自分の身体を休めて行こうとした。三年異郷で腰掛けることに慣れて来た彼は、畳の上で坐り直して見るにさえ骨が折れた。膝《ひざ》も脚《あし》も痛かった。彼は胡坐《あぐら》にして見たり、寝転んで見たりした。まだ彼はほんとうに身体を休めるというところまで行かなかった。
 岸本が意を決して西京を発とうとしたのはその夕方であった。東京の方へ向おうとする彼の足はまるで鎖にでも繋《つな》がれているのを引摺《ひきず》って行くように重かった。

        十七

 夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場《ステーション》を望んだ。彼は自分の旅の間に完成されたという東京駅をも見たいとは思い、ひょっとするとそこに自分を出迎えていてくれる人もあろうかと気遣《きづか》ったが、しかし品川まで行けば留守宅は近かった。旅の荷物も品川で受取ることにしてあった。彼は東京駅まで乗らずに、その停車場で降りた。
 かねて東京に着く日取もわざと知らせなかった留守宅の人達が、そんな時に岸本の独りで悄然《しょうぜん》と帰って来たことを知ろう筈もなかった。果して停車場の構内には彼を出迎える子供等の影さえも見えなかった。彼は停車場の出口のあたりを歩いて見た。靴のまま堅い土を踏みしめ踏みしめして見た。そうして荷物の受取れるのを待った。その乗降の客も少い建築物《たてもの》の前に立って見て、今更のように彼は遠く旅して帰って来たことを思った。この寂しい入京は、おのずと頭の下るような自分の長旅の終りに適《ふさ》わしいとも思った。
 その時の彼は苦しいほど疲れていることなぞを忘れてしまった。頼んだ辻待《つじまち》の車が来た。荷物も既に別の車の上に積まれた。間もなく彼を乗せた車は品川から高輪《たかなわ》へ通う新開の道路について、右へ動き左へ動きしながら長い坂を
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