ヤに合せたいと言って、なるべく紙面を賑《にぎや》かにするような旅の話を彼の口から引出そうとした。記者の中には、彼が往きの旅で遇《あ》い、またこの還りの旅で遇う人達もあった。
「オヤ、髯《ひげ》が無くなりましたね」
と言って、彼の顔を忘れずにいた人さえも有った。
十四
漸くのことで、牧野と二人ぎりになった神戸の旅館の二階座敷に、岸本は恋しい畳の上の休息に有りついた。
「何だか風邪《かぜ》でも引きそうで、靴下だけはまだ取る気に成れない」
と岸本は牧野に言って見せて、三年の間寝る時より外にあらわにしたことの無い足だけを包んで置いた。宿屋の浴衣《ゆかた》に靴下穿《くつしたばき》という面白い風俗で、二人は互いに足を投出して見た。清々とした畳の上は、寝ようと起きようと坐って見ようと勝手だ。岸本は部屋中ごろごろ転《ころ》がって歩いてもまだ足りないほどの気楽さを味わった。試みに横になって、あおのけさまに自分の背中を畳に押しあてて見ると、船から上って来た時の心持が湧《わ》き上って来る。まだ彼は半分海に居るような気もする。もし上陸して遭遇《であ》う最初の日本人があったなら、知る知らぬに関《かかわ》らずその人に齧《かじ》り着いて見たいような、そんな心持で帰って来たばかりの自分のような気もして来る。すくなくも彼がこの港をさして遠く帰って来た思郷の念は、あの長期の航海を続ける船乗の心に似たものであった。陸の上に仆《たお》れ伏し、懐しい土に接吻《せっぷん》したいとさえ思うというあの船乗の心は全く彼の心に近いものであった。
「漸く。漸く」
と彼は言って、互に真黒に日に焼けて来た牧野と顔を見合せた。
夕刊の出る頃になると、牧野や岸本の無事に仏蘭西から帰国したということが宿の内儀の持って来て見せた新聞にも載せてあった。先刻《さっき》この二階で話したと思うようなことが最早活字になって来た。面白そうな見出しで、多忙《いそが》しく書かれた文章で。岸本は自分のことの出ているその新聞を自分で読んで見た。どんな苦い顔をしてあの義雄兄がこうした記事を読むだろう、という想像が一番先に彼の頭脳《あたま》へ来た。その新聞には、牧野と二人並んだ写真も出ていた。税関の裏手の空地で二人がこの港に着くか着かないにある技師の早取写真に納められたのが、それだ。倫敦《ロンドン》仕込の灰色な脚絆《きゃはん
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