b里を辞し五月に入って倫敦を発って来た岸本は漸《ようや》く七月の初めになって神戸の港に辿り着いた。
「神戸へ着く晩は眠るまい。皆起きていよう」
 そんな申合せをするほど楽みにして遠くから港の燈火《ともしび》を望んで来た船客一同と共に、岸本は一夜を和田|岬《みさき》の燈台の附近に送った上で、翌朝の検疫を済ましてから艀《はしけ》に移った。新嘉坡《シンガポール》以来船では俄《にわか》に乗客を加えたから、その朝一緒に上陸する男女の同胞も可成《かなり》多かった。
 しばらく岸本は牧野と二人で税関の側に時を送った。二人はまだ懐しい海岸の土の上に自分等を見つけたばかりの旅行者の姿のままであった。船の入港を知って、上陸者を迎えようとする人達が波止場に集って来た。岸本はそれらの人達に眼をそそいだり、それらの人達の間をあちこちと歩いて見たりした。どうかすると見ず知らずの人にさえ御辞儀の一つもして見たいような気にさえなった。そして遠い国の方から帰って来たものであるというその心を告げたかった。
「牧野君。車なんかに乗らないで、これから宿屋まで歩こうじゃないか。もっと何処《どこ》か歩いて見たいね――跣足《はだし》にでもなって、そこいらを駈《か》け廻って見たいね」
 こう岸本が言出した頃は、久しぶりで見る国の日の光がもう税関の附近まで強く射《さ》して来ていた。岸本は連《つれ》の迷惑なぞを顧みないで、それを言った。それほど彼は自分の小さな胸に満ち来る狂気《きちがい》じみた歓喜《よろこび》を隠せなかった。
 牧野を誘って、以前と同じ旅館まで行く途中で、岸本は旧《ふる》い馴染《なじみ》の顔に遇《あ》った。そこの亭主が彼を迎えに来てくれたのだ。旅館へ着いて見ると、そこでも岸本は三年|振《ぶり》での人に遇った。往きの旅に東京の番町の友人等と連立って船まで別れを惜みに来てくれたその旅館の内儀《かみさん》だ。
 岸本は既に激しい疲労を身に覚えていた。何よりも先《ま》ず彼の願いは旅の着物を脱ぐことにあった。しかし間もなく旅館へ訪ねて来た新聞記者の一団は牧野や彼を休ませなかった。彼は上海まで帰って来ると、船の碇泊《ていはく》中にもう土地の新聞記者に見出されて、旅の話なぞを求められた。その時、国の方で自分を待受けていてくれるものは第一にそうした訪問者であろうということを感じないでもなかった。記者等はその日の夕刊に
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