ノ乗移った。戦時のことで、同胞の道連れも極く少かったが、その中には岸本が巴里で懇意になった夫婦の客もあった。一家族して国の方へ帰って行こうとする人達だ。岸本と前後して巴里を発って来た人達だ。いずれも籠城同様の思いをした開戦当時からの同じ記憶に繋《つな》がれている人達だ。
「子供を連れての旅は容易じゃないね」
 と岸本はその夫婦の客のことを牧野に言って見た。二人までも幼い人達を道連に加えたことは、一層岸本の心に遠い旅立《たびだち》らしい思いをさせた。
 到頭岸本はテエムズの河口を出て行く汽船の甲板の上に、帰国の途に就《つ》く旅人としての自分を見つけた。海は最早《もはや》巴里の客舎で思出して見たり、想像に描いて見たりして、それを無聊《ぶりょう》な時の心やりとしたような遠いところにあるものでなく、実際に彼の眼前《めのまえ》を通過ぎる赤黒い英吉利風の帆、実際に彼の方へ近く飛んで来る海の鴎《かもめ》の群、実際に波の動揺に任せている沈没した船の帆柱|煙筒《えんとつ》であった。懐《なつか》しい故国も最早遠い空のかなたにのみある夢想の郷《さと》ではなくて、一日々々と近づいて行こうとする実際の陸であった。艫《とも》寄りの甲板の欄《てすり》の側に立って、そこから大きな煙筒の方を望むと、さかんな黒い煙が凄《すさま》じい勢いで噴出《ふきだ》している。あだかも羽翼《つばさ》をひろげた黒い怪鳥が一羽ずつそこから舞い起《た》つかのように見える。その煙は、故国に向って行く心を一層切に彼の身に感じさせた。この船の最終に行き着くところは、神戸だ。そう考えると、心を強く刺戟《しげき》するいろいろさまざまなものが国の方で彼を待受けているように思われて来る。再び故国を見得るということは、彼に取って実に嬉しいことでもあり、心配なことでもあった。
 五月《さつき》の雨が濁った波の上へ来た。岸本は側へ来て立つ牧野と並んで、二人で甲板の上から海を眺《なが》めて行った。

        十二

 一昼夜に三百十五六|浬《マイル》を駛《はし》る快い速力で、岸本を乗せた船はドバアの海峡を通り越して行った。航海の五日目には、英吉利沿岸の白く光る崖《がけ》も遠く後方《うしろ》になった。早や何方《どっち》を向いても陸というものを見ることの無いような、青い深い大海の真中へ出て行った。
「この船に乗ってしまえば、もう半分国へ帰っ
前へ 次へ
全377ページ中196ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング