Xは彼の見る車の窓から一目|毎《ごと》に消えて行った。
停車場へは牧野や岸本を見に来てくれる人達も少くはなかった。戦時以来一緒に籠城《ろうじょう》の思いをしたり、日を定めて骨牌《かるた》に集ったり、希臘飯《ギリシャめし》を附合ったりした連中は、遠く帰って行く岸本等を見送りに来てくれた。英吉利《イギリス》行の兵卒や旅客なぞの往きかう混雑の中で、岸本はすっかり旅支度《たびじたく》の出来た牧野を見た。
「到頭《とうとう》岡君には逢わずじまいに発《た》って行くね」
「岡も何時《いつ》帰ることやら」
岸本と牧野とは二人でリオンの方に居る岡の噂《うわさ》をした。
「牧野君、まだ僕は迷っていますよ。なるべくは君と一緒に船で帰りたいし、露西亜《ロシア》の方も廻って見たいし――」
「岸本さんはまだそんなことを言ってるんですか」
巴里を発つ間際になるまで思い迷っている岸本の顔を見て、牧野は元気の好い声で笑った。ともかくも岸本は英吉利まで牧野等と同行することにした。それから先の旅程は倫敦《ロンドン》に着いて見た上で定めることにした。何と言っても戦時の旅であったからで。
救いの船にでも乗るようにして、岸本は三人の連と一緒に汽車に移った。間もなく動いて行く車の窓から、彼は遠くサクレ・カアルの高塔に日の映《あた》るのを望んだ。あだかもあの岡の上に立つ古い石造の寺院までが彼の帰国を見送ってくれるかのように。それが最後に彼の望んだ巴里であった。
十
岸本はセエヌ河口にあたるアーヴルまで動いた。仏国、下セエヌ州にあるというその港までは、巴里から汽車で一日|要《かか》った。そこで仏蘭西の土地を離れて、彼は牧野等と共に夜の汽船で英吉利海峡を越した。
旅行も困難な時であった。白耳義《ベルジック》仮政府の所在地として聞えたアーヴルでの税関が既にもう第一の関所で、容易には人を通さなかった上に、あの港から海峡を越してしまうまでの間がまた旅するものの難場《なんば》に当っていた。ひしひしと迫って来る物凄《ものすご》い海上の闇《やみ》にまぎれて進んで行く船の中で、何時《いつ》襲いかかるかも知れない敵を待受けるような不安な念慮《おもい》は、おちおち岸本を眠らせなかった。その数日前|独逸《ドイツ》潜航艇のために撃沈された汽船のあるという噂は一層その不安を深くさせた。サウザンプトンに着いて見
前へ
次へ
全377ページ中194ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング