。《ありがたみ》を知った。もしこれから無事に故国に辿《たど》り着くことが出来たら、自分も適当な人を見つけて、もう一度家庭をつくろうし、自分のために一生を誤ろうとした節子にも新しい家庭の人となることを勧めよう、こう彼は考えるように成った。独身の生活から引返して行って二度目の結婚を実行しようと思う心――その心でこそ、彼は再び節子を見ることが出来るとも考えた。
 巴里を発《た》つ前に、彼の再婚説に賛成してくれた一人の美術家もあった。その人は国の方に居る心あたりの婦人を思出して、候補者として勧めてくれるほど世話好きであった。その人はまた彼のためにわざわざ国の方へ手紙まで出して置いてくれた。
「どういうものが国の方で自分を待っていてくれるだろう」
 そう思って歩いて行くと、これから彼の前途に展《ひら》けて来る実際の光景は全く測り知り難いもののような気がした。
 屋並《やなみ》に商家の続いたサン・ミッシェルの並木街まで引返して行くと、文房具を並べたある店の飾窓が岸本の眼についた。その店で彼は自分の子供等のために仏蘭西《フランス》風の黒い表紙のついた帳面や色鉛筆なぞを見立てた。狭い鞄《かばん》の中へ入れて行く僅《わずか》の巴里土産《パリみやげ》でもいかに泉太や繁を悦《よろこ》ばすであろうと思った。それを提《さ》げて旅館へ戻ると、丁度年とった仏蘭西の婦人の訪《たず》ねて来るのに逢った。黒い帽子、黒い着物、黒い手套《てぶくろ》、一切黒ずくめだ。顔にまで黒い網を掛けていた。この戦時らしい喪服を着て訪ねて来た婦人が、長いこと岸本の泊っていた下宿の主婦《かみさん》だ。
 主婦は岸本の旅館まで礼を言いに来た。巴里滞在中、岸本がこの主婦に世話した同胞の客も少くなかったから。序《ついで》に主婦は岸本の末の女の児にと言って、仏蘭西風の人形を提げて来てくれた。
「この人形の頭巾《ずきん》でも、着物でも皆《みんな》私が手縫《てぬい》にしたものです。靴まで穿《は》いています。これをお嬢さんに進《あ》げて下さいまし。お国へお帰りになって解《ほど》いて御覧なさると、分ります。この人形は仏蘭西の女の子の着るものは皆身に着けています」
 こう言った後で、主婦は言葉を継いで、
「もしまた戦争の済んだ時分に、巴里で下宿したいという日本のお方がありましたら、御世話をなすって下さいまし。私もこの商売を廃《や》めてしまっ
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