、話のあったことを思い出した。あの種子の一部は植物園に移って、そこの主事から礼手紙の来たことを思い出した。その後戦争が始まってから植物園に近い教授の住居を訪《たず》ねた時、岸本の方からその事を言出して見ると、教授は仏蘭西人の癖らしく肩を動《ゆす》って、「この戦争では何もかも滅茶々々です」と言ったことを思い出した。
折角遠いところから持って来た種子もどうなってしまったか。それを思い出すと、異郷の土ともなり得ずに国をさして戻って行こうとする自分の旅のことが一緒に成って岸本の胸の中を往来《ゆきき》した。東洋の果からやって来た彼のような人間は何処《どこ》まで行っても所謂《いわゆる》異国の人で、結局この土地の人達の生活には入り得なかったのだ。自分等は芸術に行くの外は無い、それによってこの土地の人達の生活に触れるの外は無い、こういう考えを彼はこの仏蘭西の旅の最初から起したが、彼のように書籍と睨《にら》めっくらばかりしていて土地の婦人にも近づかないでは、どう知らない人達の中へ行きようも無かった。女から入るということが一番自然な道だ、と彼に話し聞かせたある旅行者もあった。それには彼はあまりに自分を責め過ぎていた。あまりに自分の姪のことで深傷《ふかで》を負い過ぎていた。
八
しかし、もう一度結婚ということの方へ岸本の心を向けさせたのもこの異郷の旅であった。セエヌの河岸《かし》から旅館をさして戻って行く道すがら、岸本は三年前この旅に上って来た頃と今この異郷を辞する時と、その往《い》きと還《かえ》りの自分の心持の著るしい相違を思い比べながら歩いた。もともと彼の独身は深く女性を厭《いと》うところから来ていた。彼のように女性を厭いながら、彼のように女性を求めずにはいられなかったとは。旅に来て孤独を守り形骸《けいがい》を苦めるほど余計に彼はその自分の矛盾を思い知るように成った。周囲を見ると、妻のあるものは妻に逢《あ》うことを楽みに、妻の無いものは妻を迎えることを楽みにして、この無聊《ぶりょう》な外国生活から故国の懐《ふところ》へと帰って行かないものは無い。「国の方へ行ったら思うさま遊ぶぞ」こんなことを言って、遣瀬《やるせ》ない旅愁を紛らわそうとする旅行者もある。国の方の言葉、国の方の血、国の方の人――求めても得られない遠い異郷の空にあって、彼はしみじみそれらのものの難有
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