゚子の親達にも逢えると考えた。

        六

「オヤ、大層さっぱりとなさいましたね」
 こういう意味のことを仏蘭西の言葉で言って、誰よりも先に岸本の顔を見つけたものは、翌朝《よくあさ》部屋の掃除に入って来た旅館の給仕であった。
 逢う人|毎《ごと》に岸本を見て噴飯《ふきだ》さないものは無かった。巴里の狭い在留者仲間で、外国生活の無聊《ぶりょう》に苦しんでいるような人達は、「村」での出来事か何かのようにして、有るべきところに有るものが有った以前の岸本の顔の方が余程《よほど》好かったと、彼のために突飛な行いを惜んでくれた。別れを兼ねての骨牌《かるた》の会、珈琲店《コーヒーてん》での小さな集りなぞがある度に、岸本は行く先で自分の顔の評を受けた。「髭のあった時分の顔には、なつかしみが有った。何だか髭を取ってしまったら、凄味《すごみ》が出て来た」と言って笑うものがあった。「まあどうなすったんですか。ほんとに、吃驚《びっくり》してしまいましたよ。そんなことを言っちゃ悪いけれども、岸本さんは気でも狂《ちが》ったんじゃないかとそう思いましたよ」と言うものもあった。「惜しいことをした。矢張《やっぱり》君には髭が有った方が好い。国へ帰るまでには是非|生《はや》して行き給え」と言って忠告してくれる人もあった。
「岸本さん、髭が無くなりましたね。何かそれには意味が有るんですか」
 同じ旅館に泊っている留学生が小旅行から戻って来て、それを岸本に尋ねた。この人は慶応出で岸本から見るとずっと年少《としした》ではあったが、何かにつけて彼の力になってくれた。
「昔、岸本さんは坊主にお成んなすったとか――」と復《ま》たその留学生が男らしい眉《まゆ》をあげて、岸本の方を強く見て言った。「何かそれと同じような意味でもあるんですかね」
 さすがに、この人の言うことは鋭かった。岸本は返事に窮《こま》って、
「自分の髪の白くなったのは鏡にでも向わなければ分りませんが、髭の白いのは見えて、心細くて仕様がありません。もう一度書生の昔に復《かえ》ろう。そう思って、君の留守に剃ってしまいましたよ――」これ以上のことは岸本には言えなかった。
 さかんな若葉の緑が何時《いつ》の間にか古めかしく黒ずんだ石造の町々の間へ青々とした生気をそそぎ入れるようにやって来た。岸本は独りで旅館を出て、大学の建築物《たてもの》の側
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