sたた》いても戦時らしい心持を起させないところは無かった。ビヨンクウルの書記の家へ行って見た。そこでは最早老婦人の姿は見えず、細君も留守で、二人の子供が家婢《おんな》を相手に淋しそうにしていた。ブロッスの老教授の家へ行って見た。そこでは戦地の方へ行っている若い子息《むすこ》の一人が負傷したとやらで、教授夫婦は見舞のために出掛けて、家婢が心配顔に留守番をしていた。
いよいよ仏蘭西の旅も終に近いことを思わせるような夕方が来た。岸本は旅館の三階の部屋に独《ひと》り籠《こも》って、古い歴史のあるソルボンヌの礼拝《らいはい》堂の方から石造の町の建築物《たてもの》の間を伝わって来る鐘の音を聞きながら、東京の留守宅|宛《あて》の手紙を書いた。
かねて岸本にはこの旅を終る頃に為《な》し遂《と》げたいと考えて置いたことが有った。巴里を引揚げる頃が来たら自分の髭《ひげ》を剃落《そりおと》してしまおう、そして帰国の途に上ろうと考えていた。不思議と言えば不思議、突飛《とっぴ》と言えば突飛な考えではあったが、心に編笠《あみがさ》を冠《かぶ》る思いをして国を出て来た岸本には別にそれが不思議でもなく突飛でもなかった。何か彼は現在の自分の心を実際に自分の身に現したかった。
しばらく岸本は部屋の寝台に腰掛けて自分で自分の為ることを制止《おしとど》めようとして見た。しかし、かねての思いを遂げる時が来ていた。そこで彼は髭を落しに掛った。部屋には壁に寄せて造りつけた石の洗面台がある。その上に姿見がある。彼はその前に立って、自分で剃刀《かみそり》を執った。惜気《おしげ》もなく剃刀を動かす度に、もう幾年となく鼻の下に蓄《たくわ》えて置いたやつが曲《ゆが》めた彼の顔を滑《すべ》り落ちた。好くも切れない剃刀で、彼は唇《くちびる》の周囲《まわり》の腫《は》れ上るほど力を入れて剃った。
曾《かつ》て国の方で人を教えたこともある自分の姿のかわりに、ずっと以前の書生時代にでも帰って行ったような自分の姿がそこへ顕《あらわ》れて来た。最後に姿見の方へ行って剃り立ての顔を眺めた時は、今まで髭に隠れていた鼻の下あたりが青々として見えた。ところどころからは血も滲《にじ》み出た。
岸本の顔はまるで変ってしまった。しかし彼はさも心地よげに、両手で口の周囲《まわり》を撫《な》で廻した。この顔でこそ、もう一度国の方へ帰って行って
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