スよく岸本の下宿へ顔を見せた。
「国の方ではどういうものが僕等を待っていてくれますかサ」牧野を見る度《たび》に、岸本はそれを言わずにはいられなかった。
「留守宅でも困っているんじゃないかと思うんです。帰って行って見たら、第一その心配をしなけりゃ成るまいかと思うんです」
こう岸本は日頃めったに牧野の前で言出したことも無い自分の留守宅の方の噂《うわさ》をすると、骨の折れる旅を続けて来た牧野はそれを聞いて点頭《うなず》いて見せた。
「二度とこういう旅をしようとは思いませんね」
牧野を前に置いて、岸本はつくづく辛《つら》いことの多かった過ぐる三年近くの月日を思い出したように嘆息した。
それが下宿の部屋で牧野を見る最終の時であった。岸本は旅館の方へ行ってから、ほんとうに旅支度を調《ととの》えたいと思った。いよいよ頼んで置いた辻馬車《つじばしゃ》が町の並木の側に来て、仮に纏《まと》めた荷物を送出すという前に、岸本は苦《にが》い昼寝の場所であった部屋の寝台の側へも行き、冷い壁にかかる銅版画のソクラテスの額の下へも行き、置戸棚《おきとだな》の扉《と》に張りつけてある大きな姿見の前へも行った。その部屋を去る頃の彼の髪は自分ながら驚くほど白くなっていた。
五
最早岸本は巴里にじっとしている在留者でなくして帰国の途に上りかけている旅行者であった。ソルボンヌの大学に近い旅館に移ってから、毎日のように彼は用達《ようたし》に出歩いた。これから倫敦《ロンドン》へ渡ろうとする手続きを済ますためには、巴里の警察署へも行き、外務省へも行き、英吉利《イギリス》の領事館へも行った。国の方の親しい人達への土産《みやげ》として、こころざしばかりの品々を探すためには、古いサン・ゼルマンの並木街なぞを歩き廻った。丁度セルヴァンテスの三百年祭も来ていて、あの「ドン・キホオテ」を書いた西班牙《スペイン》の名高い作者を記念するための新刊の著述なぞが本屋の店頭《みせさき》を飾っていた。学芸に心を寄せる岸本のような男に取っては、そうした新刊書の眼につく飾窓の前を通りながら、もう黄ばんだ若葉の延びて来ているマロニエの並木の間を往《い》ったり来たりした時には余計に旅らしい心を深くしたのであった。別離《わかれ》を告げるために、彼は日頃《ひごろ》懇意にした仏蘭西人の家々をも訪《たず》ねて見た。どの家を叩
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