ン本は遅く部屋の寝台に上った。枕に就《つ》く前にも、床の上に半ば身を起していて、若い時分の友達のことや、自分の青年時代のことを思い出した。あの早くこの世を去った青木に別れた時から数えると、やがて二十年近くも余計に生き延びた自分の生涯を胸に浮べて見た。彼は唯持って生れたままの幼い心でその日まで動いて来たと考えていた。気がついて見ると、どうやらその心も失われかけていた。
「そうだ。何よりも先《ま》ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない」
 と言って見た。旅に来てその晩ほど、彼は自分の若かった日の心持に帰って行ったことは無かった。

        百二十九

 頑《かたくな》な岸本の心にも漸くある転機が萌《きざ》した。もし国の方へ帰らないことに方針を定め、全然知らない人の中へ踏込んで行こうとするには、この戦時に際してどういう道が彼の前にあったろう。今は十八歳から四十八九歳までの仏蘭西《フランス》人が国難に赴《おもむ》いている。学芸に携わるものでも、ビヨンクウルの書記のように自転車隊附として働いているものがあり、ラペエの詩人のように輸送用の自動車に乗って働いているものもある。もし義勇兵に加わっても知らない人の中へ行こうとするほどの心を有《も》つならば、無理にも行く道が無いではなかった。けれども岸本はこれ以上深入して、国の方に残して置いて来た子供等を苦めるには忍びなかった。そこまで行って、漸く彼には帰国の決心がついた。
 義雄兄からはなるべく早く帰って来てくれとした手紙が来るように成った。岸本は兄に宛《あ》ててこの決心を書送った。ともかくも来《きた》る十月の頃まで待ってくれ、それまでには帰国の準備をしたいと思うし、二度と出掛けて来るような機会が有ろうとは一寸《ちょっと》思われないから、出来るだけこの旅を役に立てたいと思うと書送った。
「岸本さん、スエズを経由して日本の方へ帰ります」
 短い言葉に無量の思いを籠《こ》めた絵葉書が千村教授の許《もと》から届いた。それを手にして見ると、岸本は旅の空で懇意になったあの千村の声を親しく聞く気がした。千村は郵船会社の船で倫敦《ロンドン》から帰東の旅に上る時にその便りをくれたのであった。亜米利加《アメリカ》廻りで帰りたいという便りのあった高瀬の出発も最早遠くはあるまいと思われた。
 岸本は部屋の窓へ行って、千村が泊っていた旅館を望んだ。窓の
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