o来なかった。町の空も暗かった。しかし、正月、二月あたりはもっと暗い日の続くことが多かった。彼は恐ろしい低気圧が、十五日も続いた低気圧が、自分の心の内部《なか》を通過ぎて行ったことを感じた。冷い感じのする硝子《ガラス》を通して望まるる町の空は暗いとは言っても早や何となく春めいた紅味《あかみ》を含み、遠い建築物《たてもの》の屋根や煙突も霞《かす》んで見え、戦時の冬らしく凍り果てた彼の旅の窓へも、漸《ようや》く底温かい春が近づいたかと思わせた。
久し振りで聞く軍隊の相図の笛が岸本の耳についた。喇叭卒《らっぱそつ》を先に立てた仏蘭西歩兵の一隊がゴブランの市場の方角から進んで来た。そして町の片端で足を休めて行こうとするところであった。窓から望むと、冬枯のプラタアヌの並木の下あたりは寄せ集めた銃や肩から卸した背嚢《はいのう》で埋められた。騎馬から下りて休息する将校等も見えた。眼の下に動く兵卒等の軍帽を包んだ紺の布《きれ》や、防寒用の新服はいずれも酷《ひど》く汚れて、風雪の労苦が思いやられた。
「生きたいと思わないものは無い――」
と彼は自分に言って見た。
町々の婦女《おんな》は出て兵卒等をねぎらおうとした。葡萄酒《ぶどうしゅ》を奮発する珈琲店《コーヒーてん》のかみさんがあれば、パン菓子を皿に盛って行って勧める菓子屋のかみさんもあった。岸本も部屋にじっとしていられなかった。彼は急いで帽子を冠《かぶ》り、階段を降りて、この人達の中に混ろうと思った。夫や兄弟や従兄弟《いとこ》のことを心配顔な留守居の婦女《おんな》、子供、それから老人なぞが休息する兵卒等の間を分けて、右にも左にも歩いていた。岸本は自分の隠袖《かくし》の中から巻煙草《まきたばこ》の袋を取出し、それを側に居る五六人の兵卒にすすめて見た。
百二十二
一日は一日より岸本の旅の心は濃くなって来た。暇さえあれば岸本は自分の下宿を出て、戦時の催しらしい管絃楽《かんげんがく》の合奏を聴《き》くためにソルボンヌの大講堂に上り、巴里の最も好い宗教楽があると言われるソルボンヌの古い礼拝《らいはい》堂へも行って腰掛けた。彼はまた人と連立って、サン・ゼルマンの長い並木街をセエヌの河岸《かし》まで歩きに行って見た。ルウヴル宮殿の古い建物《たてもの》やチュレリイ公園の石垣が対岸に見える河の畔《ほとり》まで行くと、水の流
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