゚って行って見ると、つくづく岸本には異人という心が浮んだ。そうそう長く留るべき場所では無し、又長く続けて行くべき境涯でも無いという気がして来た。自分のことをよく心配していてくれたビヨンクウルの老婦人のような温情のある人は亡《な》くなった上に、時局は一層彼の旅を不自由にした。折角懇意になった仏蘭西人で国難のために夢中になっていないものは無かった。学問も、芸術も、殆《ほとん》ど一切休止の姿だ。彼の周囲には、戦争あるのみだ。
 岸本は異郷の土となるつもりで国を出て来た自分の決心が到底行われ難いことを感じて来た。国には彼を待つ頼りの無い子供等があった。彼は、あだかも冷く厳《おごそ》かな運命の前に首を垂《た》れる人のようにして、こうした一生の岐路《わかれみち》に立たせられるよりは寧《むし》ろ与えられた生命《いのち》を返したいとまで嘆いた。彼は亡き父の前に自分を持って行って、「この生命を取って下さい」とも祈った。

        百二十一

「旅人よ、足をとどめよ。お前は何をそんなに急ぐのだ。何処《どこ》へ行くのだ。何故お前の眼はそんなに光るのだ。何故お前はそんなに物を捜してばかりいるのだ。何故お前はそんなに齷齪《あくせく》として歩いているのだ。
 ――旅人よ。お前はこの国を見ようとしてあの星の光る東の方から遙々《はるばる》とやって来たのか。この国にあるものもお前の心を満すには足りないのか。
 ――旅人よ。夕方が来た。何をお前は涙ぐむのだ。お前の穿《は》き慣れない靴が重いのか。この夕方が重いのか。それとも明日の夕方が苦しいのか。
 ――旅人よ。何故お前は小鳥のように震えているのだ。仮令《たとえ》お前の生命《いのち》が長い長い恐怖の連続であろうとも、何故もっと無邪気な心を有《も》たないのだ。
 ――旅人よ。足をとどめよ。この国の羅馬《ローマ》旧教の季節が来ている。お前も来て、主の受難を記念する夕方に憩《いこ》え。お前に食わせる麺麭《パン》、お前に飲ませる水ぐらいはここにも有ろうではないか……」
 書斎でもあり寝室でもある部屋の机に対《むか》って、岸本は自分の書いたものを取出した。窓側《まどぎわ》の壁に掛けてある仏蘭西の暦は三月の来たことを語っていた。その窓側で彼は書きつけた自分の旅情を読み返して見た。
 部屋を見廻すと、まだまだ彼は長い冬籠《ふゆごも》りの有様から抜け切ることが
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