んのことを思い、自分の子供のことを思う度《たび》に、枕の濡《ぬ》れない晩は無いと書いてよこした。そんなに叔父さんは沈黙を守っていて、この自分を可哀そうだと思ってはくれないのかと書いてよこした。
名状しがたい心持が岸本の胸中を往来した。日頃一種の侮蔑《ぶべつ》をもって女性に対して来たほど多くの失望に失望を重ねた自分の心持がそこへ引出された。姪《めい》を憐《あわれ》み、姪を恐れることはあっても、決して彼女の想像するようなものでは無かった自分の心持がそこへ引出された。節子のことを考える度に、きまりで思出すのは義雄兄の言葉であって、「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言ってくれたあの兄に対して来た自分の心持もそこへ引出された。この岸本の堅く閉《とざ》した心の扉《とびら》の外に来て自分を呼びつづけていたような姪の最後の声を聞く気がした。根気も力も尽き果てたかと思われるようにその扉を叩《たた》いた最後の精一ぱいの音を聞きつけたような気がした。
煖炉には赤々とした火がさかんに燃えていた。倹約な巴里の家庭では何処《どこ》でも冬季に使用する亀《かめ》の子《こ》形の小さな炭団《たどん》が石炭と一緒に混ぜて焚いてあった。岸本は嘆息して、姪から来た手紙も、覚束《おぼつか》ない羅馬《ローマ》文字で彼女自身に書いてよこした封筒も、共に煖炉の中へ投入れた。見る間に紙は燃え上って、節子の文字は影も形もなくなった。岸本は喪心した人のように煖炉の前に立って、投入れた紙片《かみきれ》が灰に成るのを眺めていた。
百十
それぎり節子の消息は絶えた、薄暗く、陰気くさく、ろくろく日光も見られず、極く日の短い時分には午後の三時半頃には最早《もう》暮れかけて、一昼夜の大部分はあだかも夜であるかのような巴里《パリ》の冬が復《ま》た旅の窓へやって来た。到頭岸本は戦時の淋《さび》しい降誕祭を迎え、子供等に別れてから二度目の年を異郷の客舎で越した。
黄なミモザの花や小さな水仙のようなナアシスに僅《わずか》に春待つ心を慰める翌年の二月半のことであった。一旦消息の絶えた節子からの便《たよ》りが思いがけなく岸本の許《もと》へ届いた。最早手紙は書くまいと思ったが、叔父さんから送ってくれた旅の記念の絵葉書を見るにつけても、つい禁を破ってこの便りをする気に成った、と彼女は書いてよこした。その手紙にはとかく彼
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