いとま》の無いようなこの新天地の眺望《ちょうぼう》ほど旅の不自由を忘れさせるものはなかった。
異郷の生活を続けようとする心を移して、岸本は遠く国の方にある自分の身内のもののことを思いやった。足掛二年の月日は遠く離れている親戚《しんせき》の境遇をも変えた。姪の愛子は夫に随《したが》って樺太《からふと》の方に動いていた。根岸の嫂《あによめ》は台湾の方へ出掛けて行って民助兄と一緒に暮していた。恩人の家の弘が結婚したことも、鈴木の兄が郷里の方で病死したことをも、岸本は旅にいる間に知った。
何となく遠く成って来た国の方の消息の中で、東京の留守宅の様子を岸本のところへ精《くわ》しく知せてよこすのは節子であった。彼女からの便りで、岸本は義雄兄の家族に托《たく》して置いて来た二人の子供の成長して行くさまを思いやることが出来た。「あなたの方の身体は鉄《かね》ですか」と丈夫な子供等に向って言暮しているという嫂の言葉、黐竿《もちざお》を手にして蜻蛉釣《とんぼつ》りに余念がないという泉太や繁の遊び廻っている様子――耳に聞き眼に見るようにそれらの光景を思いやることの出来るのも、彼女からよこしてくれる手紙であった。
「あの事さえ書いてないと、節ちゃんの手紙はほんとに好《い》いんだがなあ――」
と岸本は独りでよくそれを言って見た。節子はまた以前の浅草の住居の方から移し植えた萩《はぎ》の花のさかりであるということなどに事寄せて、岸本が見たことの無い子供の誕生日の記念のために書いてよこすことを忘れなかった。
百九
あれほど便りをするのに碌々《ろくろく》返事もくれない叔父さんの心は今になって自分に解った、と節子は力の籠《こも》った調子で書いた手紙を送ってよこした。長い冬籠《ふゆごも》りの近づいたことを思わせるような日が来ていた。ルュキサンブウルの公園にある噴水池も凍りつめるほどの寒さが来ていた。部屋の煖炉《だんろ》には火が焚《た》いてあった。岸本はその側へ行って、節子から来た手紙を繰返し読んで見た。叔父さんはこの自分を忘れようとしているのであろうと彼女は書いてよこした。そんなら、それでいい、叔父さんがそのつもりなら自分は最早《もう》叔父さんに宛てて手紙を書くまいと思うと書いてよこした。あれほど自分が送った手紙も叔父さんの心を動かすには足りなかったのかと書いてよこした。叔父さ
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