なぞを乞《こ》うものには誰にでもただでくれたという話をした。多くの市民は乗るものもなく、皆徒歩で立退《たちの》いたという話をした。それらの人達が夜の街路《まち》に続いて、明方まで絶えなかったという話をした。
シャトレエの広小路まで歩いた。そこまで行くと、いくらか巴里らしい人の往来《ゆきき》が見られた。二人はセエヌの河岸についてサン・ルイの中の島へと橋を渡り、そこから古いノオトル・ダムの寺院の裏手が望まれるところへ出た。石垣の下の方には並んで釣《つり》をしている黒い人の影も見えた。セエヌの水も寂しそうに流れていた。
「冷たい石の建築物《たてもの》に、黒い冬の木――いかにも巴里の冬らしい感じですね」
と牧野は画家らしい観察を語った。岸本はこの人と連立って枯々とした並木の間を影のように動いた。石造の歩道を踏んで行く自分等の靴音の耳につくのを聞きながら、今は巴里にある極く僅《わずか》の日本人の中の二人であることをも感じた。
百八
「早く英吉利《イギリス》を切揚げたまえ。この沈痛な巴里を味《あじわ》いたまえ」
こう岸本は高瀬へ宛てて手紙の端に書いて送った。倫敦《ロンドン》にある高瀬からその後の様子を尋ねてよこした時の返事として。
この周囲の寂しさにも関《かかわ》らず、岸本はもう一度自分の部屋の机に対《むか》って見た。灰燼《かいじん》の巷《ちまた》と化し去ることを免れた旅窓の外に見える町々も、変らずにある部屋の内の道具も、もう一度彼を迎えてくれるかのように見えた。ピアノを復習《さら》う音が復《ま》た聞えて来た。例の無心な指先から流れて来るようなその幽《かす》かなメロディばかりでなく、床を歩き廻る小娘らしい靴音までが階上から聞えて来ていた。
心の悲哀《かなしみ》を忘れるために学び始めた新しい言葉の芽も一息に延びて来た。読もう読もうとしても読めずに蔵《しま》って置いた書籍を取出して見ると、何時の間にか意味が釈《と》れるように成っていた時は、彼は青年時代の昔と同じような嬉しさを感じた。大きな蔵の中にでも納ってある物のような気がしていたラテン民族の学芸の世界は遽《にわ》かに彼の前に展《ひら》けて来た。あそこに詩の精神がある、ここに歴史の精神がある、と言うことが出来るように成った。何等の先入主に成ったものをも有《も》たなかった彼に取っては、殆ど応接するに暇《
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