A町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
 節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭《いや》な顔をした。

        五

「お節ちゃん」
 子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋《すが》った。
 岸本は家の内を歩きながらこの光景《ありさま》を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏《まと》いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺《なが》めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣《ひとえ》なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前《めのまえ》に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出《いで》」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉《うれ》しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯《からだ》を持上げて見た。
「オオ重くなった」
 と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復《ま》た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
 急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図《ぐず》り始めた。
「お節ちゃん」
 言葉尻《ことばじり》に力を入れて強請《ねだ》るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹《こた》えた。
「繁ちゃんはお睡《ねむ》になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進《あ》げますからね」
 その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅《かたすみ》へ蒲団《ふとん》を敷いた。そこは長火鉢《ながひばち》なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度|直《す》ぐ階下《した》に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑《みかん
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