切に感ずるように。
「叔父さんは知らん顔をして仏蘭西から帰っていらっしゃいね」
 と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度《たびじたく》でいそがしがっていた頃に彼女の近く来て言ったあの言葉が、ふと胸に浮んだ。岸本は独りでそれを思出して見て、ひやりとした。
 窓掛を開けたままにして置いて、復《また》岸本は寝台に上った。もう一度眠に落ちた彼が眼を覚ました頃は大分遅かった。その朝、恐ろしかった夢の心地は、起出して机に対《むか》った時でもまだ彼から離れなかった。
「節ちゃんはどうしてああだろう。どうしてあんな手紙を度々|寄《よこ》すんだろう」
 こう岸本はそこに姪でも居るかのように独りで言って見て、溜息《ためいき》を吐《つ》いた。なるべく「あの事」には触れないように、それを思出させるようなことさえ避けたくている岸本に取っては、節子から度々《たびたび》手紙を貰《もら》うさえ苦しかった。彼は以前にこの下宿に泊っていた慶応の留学生からある独逸語を聞いたことがある。その言葉が英語の incest を意味していて、偏《かたよ》った頭脳のものの間に見出される一つの病的な特徴であると説明された時は、そんな言葉を聞いただけでもぎょっとした。彼はまたある若い夫人に関係があったという他の留学生の身上話を聞かされた時にも、その若い夫人が夫の旅行中に妊娠したという話を聞かされた時にも、そんな話を聞いただけで彼は酷《ひど》く心に責められたことがある。況《ま》してその年若な留学生が自己の美貌《びぼう》と才能とを飾るかのようにその話を始めた時には、彼は独りで激しい心の苦痛を感ぜずにはいられなかった。何故、不徳はある人に取って寧《むし》ろ私《ひそ》かなる誇りであって、自分に取ってこんな苦悩の種であるのだろう、と嘆いたことさえあった。この一年あまりというもの、彼は旅に紛れることによって、僅《わずか》に心の眼を塞《ふさ》ごうとして来た。

        八十七

 なつかしい故国の便りは絵葉書一枚でも実に大切に思われて時々|旧《ふる》い手紙まで取出しては読んで見たいほどの異郷の客舎にあっても、姪《めい》から貰った手紙ばかりは焼捨てるとか引裂いてしまうとかして、岸本はそれを自分の眼の触れるところに残して置かなかった。蔭ながら彼は節子に願っていた。旅にある自分のことなぞは忘れて欲しい、生先《おいさき》
前へ 次へ
全377ページ中123ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング