から受取るほどに成った。兄が黙っていてくれ、節子が黙っていてくれ、自分もまた黙ってさえいれば、どうやらこの事は葬り得られそうに見えて来た。兄が黙っていてくれないようなことは無かった。兄は一度引受けたことを飽くまでも守り通す性質で、人一倍体面を重んずる人で、おまけにこの事は娘の生涯にも関《かかわ》ることであるから。節子が黙っていてくれないようなことは無かった。以前に使っていた婆やをすら恐ろしいと言って機嫌《きげん》を取っていると書いてよこすほどの彼女であるから。して見ると自分さえ黙っていれば――黙って、黙って――そう岸本は考えて、更に「時」というものの力を待とうとした。もとより彼は自己《おのれ》の鞭《むち》を受けるつもりでこの旅に上って来た。苦難は最初より期するところで、それによって償い得るものなら自分の罪過を償いたいとは国を出る時からの願いであった。
「こんな思をしても、まだそれでも足りないのか」
 と彼は自分で自分に繰返して見た。

        八十六

 節子はめずらしく岸本の夢に入った。寝苦しさのあまり、岸本が重い毛布を跳ねのけ、壁の側の寝台の上に半ば身を起して周囲《あたり》を見廻した時は、まだ夢の覚《さ》め際《ぎわ》の恐ろしかった心地《ここち》が残っていた。
 夏らしい夜ではあったが、妙に寒かった。岸本は寝衣《ねまき》の上に国の方から持って来た綿入を重ねて、寝台を下りて見た。窓に近く行って高い窓掛を開けて見ると、夜の明けがたの蒼白《あおじろ》い静かな夢のような光線が彼の眼に映った。街路もまだ響の起らない時で、僅《わず》かに辻馬車《つじばしゃ》を引いて通る馬の鈴の音《ね》と、町々を警《いまし》めて歩く巡査の靴音とが、暗いプラタアヌの並木の間に聞えていた。明けそうで明けない短か夜の空は国の方で見るよりもずっと長い黄昏時《たそがれどき》と相待って、異国の客舎にある思をさせる。隣室の高瀬も、仏蘭西人の弁護士もまだよく寝入っている頃らしかった。岸本は喫《の》み慣れた強い仏蘭西の巻煙草《まきたばこ》を一服やって、めったに見たことのない節子の来た夢を辿《たど》った。乳腫《ちちばれ》で截開《せっかい》の手術をしたという彼女が胸のあたりを気にしている容子《ようす》が岸本の眼にちらついた。あだかも一種の恐怖に満ちた幻覚によって、平素《ふだん》はそれほどにも思わない物の意味を
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