の長い彼女自身のことを考えて欲しいと。その心から彼はなるべく節子宛に文通することを避け、彼女に書くべき返事は義雄兄宛に書くようにして来た。しかし、もう好い加減に忘れてくれたかと思う時分には、復た彼女から手紙が来て、その度に岸本は懊悩《おうのう》を増して行った。神戸以来幾通となく寄《よこ》してくれた彼女の手紙は疑問として岸本の心に残っていた。あの暗い影から――一日も離れることの無かったほど附纏《つきまと》われたというあの暗い影から、漸《ようや》く離れることが出来たと言って書いて寄した時からの彼女は、何となく別の人である。あれほどの深傷《ふかで》を負わせられながら、彼女は全く悔恨を知らない人である。岸本に言わせると、若い時代の娘の心をもって生れて来た節子のような女が、非常に年齢《とし》の違った、しかも鬢髪《びんぱつ》の既に半ば白い自分のようなものに対《むか》って、彼女の小さな胸を展《ひろ》げて見せるということが有り得るであろうかと。そう思う度に、岸本は節子が一人の男の児の母であることを想って見た。離れ易《やす》く忘れ易い男と女の間にあって、どれ程その関係が根深いものであるかをも想って見た。そこまで想像を持って行って見なければ、彼女の書いて寄す手紙はどうしても岸本の腑《ふ》に落ちないふしぶしが有った。
「子供を持つとああいうものかしら――」
何時《いつ》の間にか岸本は思い出したくないことを思い出して、独りで部屋の内に茫然《ぼうぜん》と腰掛けていた。彼は、節子が不義の観念を打消すことによって彼女の母性を護ろうとしているのではないかと疑った。遠く離れて節子のことを考える度に、彼は罪の深いあわれさを感ずるばかりでなかった。同時に言いあらわし難い恐怖《おそれ》をすら感ずるように成った。
部屋の扉《と》を外から叩《たた》く音がした。岸本は椅子を離れて扉を開けに行った。
八十八
扉《と》を叩いたのは岡であった。新しい展覧会の催しがあると言っては誘いに来てくれ、マデラインの寺院《おてら》に近い美術商店に新画が掛替ったと言っては誘いに来てくれるこの画家の顔を見ると、岸本も気を取直した。岡は国へ帰りたくないというような思い屈したものばかりでなく、何時でも血気|壮《さかん》な若々しいものを一緒に岸本の許《もと》へ持って来た。
「岡君、君はアベラアルのことを聞いたこと
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