は旅慣れていた。高瀬は独逸の方で見たり聞いたりしたさまざまな旅行者の話を巴里へ持って来た。驚くべく激しい懐郷病に罹った同胞の話なぞも高瀬の口から出て来た。ある留学生は高い窓から飛んで死んだ。ある人は極度のヒステリックな状態に堕《お》ちた。その人は親切と物数寄《ものずき》とを同時に兼ねたような同胞の連に引立てられて、旅人に身をまかせることを糊口《くちすぎ》とするような独逸の女を見に誘われて行った。突然その人は賤《いや》しい女を見て泣出したという。こんな話を高瀬から聞いた時にも、岸本は笑えなかった。
「酷《ひど》いものですな」と岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那《しな》の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを思いますよ。これでは懐郷病にも罹る筈《はず》だと思いますよ。今になって考えると、あんなに支那の留学生なぞを冷遇するのは間違っていましたね」
「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。欧羅巴《ヨーロッパ》へ来て見てそれが解《わか》りました」と高瀬も言った。
「あの連中だって支那の方では皆相当なところから来てる青年なんでしょう。その人達が旅人扱いにされて、相応な金をつかって、しかもみじめな思いをするかと思うと、実際気の毒になりますね。金をつかって、みじめな思いをするほど厭《いや》なものはありませんね。私が国を出て来る時に、『欧羅巴へ行って見ると、自分等は出世したのか落魄《らくはく》しているのか分らない』と言った人も有りましたっけ」
思わず岸本は支那留学生に事寄せて、国を出る時には想像もつかなかったような苦い経験を、日頃の忍耐と憤慨とを泄《も》らそうとした。彼はパスツウルの近くに画室住居する岡や牧野や小竹のことなぞを考える度に、淫売婦《いんばいふ》や裏店《うらだな》のかみさんのような人達と同じ屋根の下に画作することを胸に浮べて、あの連中の実際の境遇を憐《あわれ》まずにはいられなかった。自由、博愛、平等を標語とするこの国には極く富んだものと極く貧しいものとが有るだけで、自分の郷国《くに》にあるような中位《ちゅうい》で快適な生活はないのかとさえ疑った。
朝に晩に旅の思いを比べ合う高瀬のような話相手を得て見ると、岸本は名状しがたい心持が自分ばかりの感じているものでもないことを知った。屋外《そと》へ歩き廻りに行く折などに
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