るが、しかし御手紙は自分にも読めと言って当地へ送って来たから、自分から御返事する、いろいろ難有《ありがた》かったと書いてよこした。もしも自分の兄が――姪の実父が今日までも生きながらえていたなら、いかに彼がこの結婚を考えたであろう、それを思うと自分はただただ心に驚くばかりであると書いてよこした。しかし御申越の様子では万事好さそうにも思われるし、何等《なんら》の助言をも姪から自分の許へは求めても来ないから、自分等は蔭《かげ》ながらこの事の都合好く運ばれるのを望んでいると書いてよこした。老婦人はまたセエブル地方の大きく美しいことを言い添えて、ここへ暑《あつさ》を避けに来ている幾多の家族は皆友達のようであり、砂上に遊び戯るる子供等を見るのも楽いと書いてよこした。とかく季候は雨勝ちであったが、幸いに日も輝いて来たと書いてよこした。あなたの老友よりともしてよこした。

        八十二

 思いがけない人の心を読んだという心持で、岸本はビヨンクウルの書記|宛《あて》にもう一度手紙を書いてやった。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に相談するようマドマゼエルの許へ言ってやったら可《よ》かろうとした手紙を送った。
 この手紙は老婦人の方へ廻って行ったと見え、折返しセエブルの海岸から返事が来た。姪《めい》のことで御心配をかけて済まなかったと老婦人は書いてよこした。申すも心苦しいが、姪は我儘者《わがままもの》で、彼女の好きなことしかした例《ためし》がない、もともと彼女は極くきゃしゃに生れついたもので、彼女の母親も父親もあれまでに彼女が育つとは考えなかったほどである、そして彼女の空想のままに彼女の好めるままにさせて置いて両親が黙って視《み》ていたというのも、恐らくその原因は彼女が長いこと弱々しかったところにあると思うと書いてよこした。彼女は非常に富有な家に生れて、世間というものを知らずにいる、随《したが》って他《ひと》の忠告を容《い》れようとはしない、何事も彼女が独《ひと》りで出来ると思うならば、それが出来れば実に結構であると書いてよこした。なんでも滝という方は巴里《パリ》遊学中には姪を御存じもなかったようである、姪からの手紙には非常に遠慮深い方だとしてあるが、彼女はその滝さんがいかなる種類の美術家であるや
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